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ルーマニアについて

CURIO 2009年1月~5月

プラン城後編

 前号より-たとえば、ドラキュラ伯爵がトランシルヴァニア地方に実在するハンガリー系のセーケイ人であり、オスマン帝国がセルビアを中心とする連合軍を打ち破ったカッソヴォ(コソヴォ)の戦いに参戦していたとの設定などは、トランシルヴァニアについて、かなりの知識がないと出てこないものだろう。まあ、実際のヴラド三世はセーケイ人ではなかったし、一四三一年生まれの彼が一三八一年に起こったカッソヴォの戦いに参加できるはずはないというツッコミは野暮というものだが…。 そして、ブラムーストーカーの生み出したドラキュラ伯爵の居城とされたのが、僕がやってきたプラン城というわけである。無粋を承知で歴史的事実をメモしておくと、ヴラド三世は、ハンガリー王の招きによりこの城に数日間、滞在した可能性は高いが、決してここに住んでいたわけではない。それでも、トランシルヴァニアの森の中にひっそりと建つプラン城の姿は、ストーカーの小説のイメージにはたしかにピッタリで、観光名所化しているのも無理からぬことといえよう。

女吸血鬼と若者

 さて、ブラショブでホテルのチェックインを済ませた僕は、プラン城行きのバスが出るアウトガラードイ(バスターミナル2)へと急いだ。タイミングよく、僕が乗り込むとバスはまもなく発車し、四十五分ほど走ってプラン城の下に到着する。

ドラキュラ城ことプラン城に入る。
そこで見た意外な光景

バス停を降りて、さっそくブラン城の全景を写真に撮ろうと思ったのだが、近くに寄りすぎたためか、あまり格好よくない。よくよく見ると、一般的によく知られたブラン城の写真では画面の左側にある円形の塔がバス停のところから見上げると右側に見えている。ということは、この手の写真はバス停前の坂を下って行って、城の裏手に回った反対側から撮っているということなんだろう。ちなみに、一九六三年に発行された葉書の写真は、バス停の前の下り坂を少し下ったところから撮られたようだ。さらに、一九七三年に発行された葉書のプラン城も、円形の塔が右側にあるから、僕が写真を撮ったのと同じ方向から撮影したはずだが、建物の角度からして、かなり遠くから撮影しているのだろう。さて、バス停から敷地内に入ると、建物まで石畳の上り坂をしばらく上っていくことになる。もうじき建物の入り口にたどりつくというところで、結婚式を挙げたと思しき若いカップルが坂道を降りてきたので、写真を撮らせてもらった。背後には石造りの十字架も見えるが、この十字架のすぐ上が城だ。もっとも、この二人の場合は、ドラキュラ伯爵と犠牲になる乙女というよりも、女吸血鬼にとらえられた若者という雰囲気だ。メイクのせいもあるのだろうが、新郎の腕をギュッとつかんで離さないぞという風情の新婦を見ていると、これから一生、奥さんにいろいろ吸い取られ続けていく若者にいまさか同情の念が湧いてくる。

20世紀のドラキュラ城

汗を拭きながら坂道を登り切ると、建物の人口のチケット売り場のところへやってきた。間近に見上げる城は、思ったよりもずっとこぢんまりとした感じだ。チケットを買って中に入ると、薄暗い秘密の階段こそあるものの、白い漆喰の壁にシックな雰囲気のこぎれいな調度類が整然と並ぶ室内や、窓からの絶景は、"ドラキュラ"のおどろおどろしいイメージとはかけ離れたものだ。 それもそのはずで、第一次大戦の後、トランシルヴァニア地方がルーマニア領に編入されると、一九二〇年にはプラン城も当時のルーマニア王室の所有となり、時の王妃マリアが手を入れて王室の離宮の一つとして利用されていたのだ。その後、マリアの夫であったフェルディナンド二世は一九二七年に亡くなるが、息子のカロル二世は恋愛関係のもつれから王位継承権を放棄して愛妾とともに国外へ逃亡していたため、孫のミハイー世が六歳で王位を継承した。ところが、一九三〇年、カロル二世は突如帰国し、ミハイー世を退位させ自分が国王に収まってしまう。さらにカロル二世は自分の身勝手な行動を棚にあげ、国民に人気のあった妹のイレアナの追い落としをはかる。そして、彼女がハプスブルク家につながるトスカーナ大公家のアントンと結婚すると、長年にわたってルーマニアを圧迫してきたハプスブルク家に対する国民の反感をあおって、イレアナー家がルーマニア国内に居住することを禁じ、独裁体制を樹立していく。しかし、一九三九年に始まった第二次大戦でルーマニアは多くの領土を失い、カロル二世は一九四〇年に退位を余儀なくされる。これを受けて、ミハイ一世が父親の尻拭いをするかたちで復位し、イレアナー家も一九四四年にはルーマニアに戻ってプラン城に移り住んだ。上の写真はカロル二世の時代に発行された観光宣伝の葉書で、プラン城が取り上げられている。印面部分の人物は目の上のコブであったイレアナを追放して得意の絶頂にあったカロル二世だが、まさか後にイレアナが帰国してプラン城に住むようになるとは夢にも思わなかったに違いない。第二次大戦が終結し、赤軍が進駐してくる中で、イレアナは城外に病院を建設して地元住民のために働いたが、一九四七年末、ルーマニアの王制は崩壊し、共産主義政権が発足すると、他の王族とともに国外追放の憂き目にあう。もちろん、プラン城も共産党政権に接収された。  共産党支配下のルーマニアでは、その独自の民族主義路線ゆえに小説としてのドラキュラのイメージをヴラド三世と混同することはタブー視され、小説『ドラキュラ』は発禁処分とされた。しかし、その一方でオスマン帝国と戦った民族の英雄であるヴラド三世は国民統合の象徴として最大限に活用され、彼にまつわる(とされた)ブラン城も、ルーマニア民族の誇るべき文化遺産として切手や葉書にたびたび取り上げられている。さらに、ヴラド三世の恐怖政治は、同じく反対派や不満分子を徹底的に弾圧していたチャウシェスクにとって、格好のお手本だったらしい。チャウシェスクが「ヴラドの恐怖支配のおかげでワラキアには犯罪者がいなかった。ヴラドは社会革命の指導者である」と称賛していたというエピソードはブラックジョーク以外の何物でもない。ブラン城の中を歩き回ってマリアやイレアナに関する展示を一通り見ていると、改めてブラン城とヴラド三世がほとんど無関係であることが実感できる。同時に、ヴラド三世からチャウシェスクまで、この国を巻き込んできた歴史の荒波は、どんな小説に勝るとも劣らないドラマであったことも、おぼろげながら見えてきたような気がする。

ドル箱・ドラキュラ

もっとも、そんな感慨にふけりながら城から出て、バス停の方へと歩いて行くと、目の前はドラキュラ関連グッズを売る土産物屋だらけだった。さらに、ちょっと奥まったところにはドラキュラ・レストランまであって、嫌でも自分が観光地に来ていたという現実に引き戻されてしまう。  共産政権の崩壊後も、二〇〇六年までは、ルーマニア政府は観光資源としてのプラン城を手放さなかった。一九九七年に発行された切手つき封筒(63頁)には、プラン城の写真の上に"ドラキュラ年"との表示が入れられているだけでなく、印面にもヴラド三世らしき人物の顔が大きく取り上げられているという念の入れようで、ルーマニア政府がドル箱の観光資源を売り出そうとしているようすがありありとうかがえる。  その後、二〇〇六年になって、ブラン城はルーマニア王家の末裔でニューヨーク在住の建築家、ドミニクーフォンーハプスブルクに返還されたが、これは、二〇〇七年のEUへの加盟と併せて、ルーマニアが、スラブ・ロシアよりも、ハプスブルク家のヨーロッパとの関係が深かったことを示すためのパフォーマンスであることは明白だ。個人のものとなったプラン城が、今後も、これまでのように公開され続けることになるのかどうか、先行きは不透明だという。もちろん、"ドラキュラ観光"で生計を立てている多くのルーマニア人にとって、プラン城の公開が取り止めということにでもなったら、ドラキュラ伯爵が心臓に木の杭を打ち込まれるのと同じようなダメージがある。  バス停脇の土産物屋に山と積まれたプティ・ドラキュラたちは、今日もまた、夕方六時の閉場時間までに少しでも売り上げを伸ばそうと、精いっぱいの愛嬌を振りまいているのだろうか。  さて、ドラキュラといえば、絶対に外せない観光スポットがもう一つある。ヴラド三世の生まれ故郷シギショアラだ。 明日の午後にでも足を伸ばしてみることにしよう。

シギショアラ前編

ブラン城観光を終えてブラショブに戻った僕は、一泊して翌朝、ブラショブの町中を一通りぶらついた後、午後の電車でシギショアラヘ向かった。シギショアラの歴史は、十二世紀にドイツ系のザクセン人がハンガリー王の招きに応じて辺境地区に定住したのが始まりという。
 もともと、この土地は“第六要塞”を意味するカストゥルム・セクスと呼ばれていたが、ザクセン人の商人や手工業者が増えていくにつれ、モルダヴィア(現在のルーマニアの東北部、カルパティア山脈とプルート川に挟まれた地域を指すことが多いが、ルーマニア領を越えてプルート川の東にあるドニエプル川にいたるベッサラビア地方を含めることもある)やワラキア(ドナウ川と南カルパティア山脈にはさまれた地域。モルダヴィアとの境界はミルコヴ川)との交易で発展した。ちなみに、この地のザクセン人たちは、自分たちの住む土地をラテン語のカストゥルム・セクスではなく、シェースブリッヒと呼んでいる。これがシギショアラのドイツ語名“シェースブルク”の元になる。
 一方、一三七七年以降、ここには地方君主が定住するようになったが、彼らはカストゥルムーセクスにチヴィタス・デ・セグスヴァルとの名を与え、独自の裁判権や行政権、ギルド結成などの経済上の特権などの都市特権を付与したハンガリー語でこの地を“シェゲシュヴァール”と呼ぶのは、ここに由来するものだ。

シギショアラ、ドラキュラの生家で血の色のワインを飲む。

たとえば、前頁のはがきを見ていただこう。これは一九〇一年にシギショアラから差し出された絵葉書で、旧市街の遠景を取り上げたものだが、絵面には「シェースブルクからご挨拶」とのドイツ語が印刷されている。一方、裏面にはハンガリー切手が貼られて、シェゲシユヴァール(SEGASVAR)表示の一九〇一年五月二十四日付の消印が押されている。シギショアラを含むトランシルヴァニアがルーマニアに正式に統合されるのは第一次大戦後の一九一八年十二月のことで、この葉書が差し出された一九〇一年当時のシギショアラは、ハプスブルク家のオーストリア・ハンガリーニ重帝国の支配下に置かれていた。ハプスブルク家支配下のトランシルヴァニアでは、ルーマニア人は一貫して二級市民扱いだったから、地名に関しても、ドイツ語のシェースブルクないしはハンガリー語のシェゲシユヴァールの方が、ルーマニア語の“シギショアラ”よりも一般的だったということなのだろう。さて、シギショアラに着いたのは夕方の五時四十一分。駅から街の中心部までは歩いてもいけない距離ではないのだが、荷物もあったので、タクシーを拾うことにした。行先は、“カーサ・ヴラド・ドラクル”だ。トランクを開けて荷物を積み込んでいたら、すぐそのわきを馬車が通り過ぎる。馬車の荷台に載せていってもらうのも悪くなかったなと思ったが、運転手にせかされて車に乗り込んだ。“カーサ・ヴラド・ドラクル”は、吸血鬼ドラキュラのモデル、ヴラド・ツェペシュ(ヴラド三世)の生家で、現在はレストランになっている。ヴラド・ドラクルというのはヴラド三世の父親、ヴラドニ世のことだ。ヴラドニ世は一三九〇年頃生まれた。父親のワラキア公ミルチャー世(ミルチャ老公)は、一三九一年、ハンガリー王と結び、いったんはオスマン帝国の侵攻を撃退したものの、一三九五年にはオスマン帝国に敗北。トランシルヴァニアに逃れた。その後、ワラキアではダン一世がワラキア公となり、オスマン帝国への貢納を約束するが、ハンガリーの支援を得たミルチヤ老公はワラキア公として復位する。なお、当時のワラキアでは、ボイェリと呼ばれる封建貴族たちの中から、代表者をワラキア公として選ぶというシステムになっていたため、ワラキア公が数年で交代したり、間をおいて再選・三選されたりすることも珍しくはなかった。さて、ミルチヤ老公はハンガリーの支援を受けてオスマン帝国への抵抗を続けたが、一四一五年、ついにオスマン帝国に屈し、屈辱のうちに一四一八年、亡くなった。ミルチヤ老公の死後、一族は分裂し、公位をめぐる争いが続く。一四三一年にヴラド三世が生まれたときのワラキア公は、ヴラドニ世の異母兄にあたるアレクサンドル一世アルデアで、当時のヴラドニ世はワラキア公の一部将にすぎず、シギショアラに逼塞していた。ちなみに、息子の生まれた一四三一年、ヴラドニ世は神聖ローマ帝国から龍騎士団の騎士に叙任される。龍騎士団は、一四〇八年、ハンガリー王のジギスムント(一四一〇年からは神聖ローマ皇帝も兼務)が“王室や十字架を守りその敵と戦う”、つまり、オスマン帝国からの祖国防衛ために創設したもので、そのメンバーに選ばれたヴラドニ世は龍(ドラコ)にちなんで“ドラクル”と呼ばれるようになった。このドラクルの息子ということで、ヴラド三世は“ドラクラ”と呼ばれるようになり、それがドラキュラの語源になったというわけだ。
 その後、ヴラドニ世は一四三六年にワラキア公となり、一家は公国の都であったトウルゴヴィシュテ(ブカレストの北西、鉄道で一時間半ほどの地点にある)に移るが、それまで、ドラクル・ドラクラ父子はシギショアラで過ごしていた。さて、タクシーでは石畳の階段をLがることはできないので、城壁の周囲をぐるっと回ってカーサ・ヴラド・ドラクルのすぐ北側の民衆広場のところに停まる。正面にはシギショアラのシンボルの時計台、その右側にお目当てのレストランが見えるという一九九七年の切手でもおなじみの光景が目の前に飛び込んできた。
 店の入口には、ここがヴラド・ドラクルの旧宅であったことを示すプレートともに、ドラクルにちなんで龍の看板が出ているが、この看板は一九九七年の切手には小さく描かれているものの、社会主義時代の一九六三年に差し出された葉書では確認できない。外国人観光客をも視野に入れたレストランの営業というものは、やはり、民主化以降のことなのだろう。少なくとも、二〇〇八年六月に僕が撮影した写真のように、店の前にコカコーラのパラソルが立てられているなんて光景は、民主化以前にはまず考えられなかったはずだ。さて、時間が早かったせいか客は僕一人で1階に通された。室内のテーブルもあったが(図)、せっかくなのでテラス席に陣 ルーマニア料理のメニューを見てもよく分からないので、店のお勧めというチキンの煮込み(パプリカーシュというらしい)と赤ワインを一本頼む。ワインは、ザーレジェンドーオブートランシルヴァニア(トランシルヴァニアの伝説)’という名前で、ラベルにはヴラドのイニシャルVの字とプラン城をイメージしたかのような古城のシルエットが印刷されている。
 料理とワインが運ばれてくるとすぐに、民族衣装を着た2人組がやってきて、太鼓を叩いてパフォーマンスをしてくれた。これもまた、値段のうちに含まれているというわけだ。
 ともかくも、観光客を意識してのレストランなので、料理そのものは特別に美味いというわけではないが、まずいということもない。 もう一度言ってみたいかと聞かれれば返答に窮するが、まあ、一度は行ってみる価値のある店ではあるだろう。
 帰り際、レジのところにドラキュラのマペットが置かれていた。愛嬌があってかわいらしい雰囲気だが、 プラン城あたりの土産物屋の安物に比べるとかなりしっかりとした出来栄えだ。 店員に聞いてみると、クルージューナポカ(トランシルヴァニア地方のほぼ中央に位置する都市。 シギショアラからだと電車で三一四時間)の人形作家の作品で、 きちんとしたハンドメイドゆえにそれなりの値段もするのだが、店頭に置いておくとそれなりに売れるらしい。
 某社で長年、僕を担当している女性編集者から「ルーマニアに行くなら、何かドラキュラーグッズを買ってきてくださいよ。お金なら後で払いますから」 と頼まれていたことを思い出した僕は即座に購入を決断し、人形をくるんでもらった。 かくして新たな道連れを得た僕は、ほろ酔い加減のいい気分でカーサーヴラドードラクルを後にし、ホテルを目指してふらふらと歩いて行った。 取り、時計台の屋根を見ながら食事をすることにした。

シビウ前編

二〇〇七年の欧州文化首都にも指定された古都・シビウヘは、シギショアラの駅前から出ているバスに乗って行くのが便利だ。バスは国道十四号線を西へ進んでシギショアラのあるムレシュ県を抜けてシビウ県に入り、メディアシュ、コプシャ・ミカを経て南へ下って県都シビウへとトランシルヴァニア高原を走っていく。
 現在のシビウを中心とするシビウ県の地域は、十二世紀半ばにハンガリー王ゲーザニ世が辺境防衛のためにザクセン人(ドイツ人)を招いて入植させたことから拓かれた。シビウに直接つながる名前は、一一九一年のヴァチカンの文書に“シヴィニウム”という地名が登場する。
 なお、シビウというのはルーマニア語の地名だが、近代以前は、ザクセン人がハンガリー人やセーケイ人とともにトランシルヴァニアの特権階級を構成しており、人口の多数を占めるルーマニア人は小作農として二級市民の地位に甘んじていた。ちなみに、この土地は、ドイツ語ではヘルマンシュタット、ハンガリー語ではナジセベンという。中央ヨーロッパとバルカン半島を結ぶルートの途中に位置することから、ザクセン人の町、ヘルマンシュタットは早くから発達し、十四世紀にはトランいンルヴァニアの商業の中心地になった。ルターによる宗教改革の嵐がヨーロッパを吹き荒れる中で、ザクセン人たちの多くはルター派に改宗したが、当時のトランシルヴァニアは宗教的には寛容で、ドイツからは迫害を逃れてきたプロテスタントがヘルマンシュタット近郊に数多く移住。一六九一年以降、トランシルヴァニアはハンガリーから切り離され、ハプスブルク家(ドイツ系)の支配下に置かれたが、ザクセン人の特権はほぼ維持され、ヘルマンシュタットはトランシルヴァニアの文化的な中心として繁栄する。
 一八四八年、ハプスブルク家の支配に不満を持つハンガリー人は革命を起こしたが、長年にわたってハンガリー人地主の下で虐げられてきたルーマニア人はハンガリー人に抵抗してハプスブルク体制を支持。一方、独立ハンガリーヘの統合により自らの特権を失うことを恐れたザクセン人もルーマニア人とともにハンガリー革命軍と戦った。図は、ハンガリー革命の挫折から間もない一八五一年六月三十日、“ヘルマンシュタット”から新聞を包んで送った際の帯封(の一部)である。新聞というと、日本では各家に配達されるか駅やコンビニで買うものというイメージが強いが、かつての欧米では、郵便で送られるものでもあった。現在でも『xxポスト』と題する新聞があるが、それらはいずれも、もともと郵送されるものだった。郵政当局はまとまった部数の新聞を定期的に郵送してくれる新聞社を優遇し、新聞を送るための専用切手(新聞切手)が発行されることもあった。世界最初の新聞切手は一八五一年にオーストリアで発行された。上の帯封に貼られているものだ。
 切手に描かれているのは、ローマ神話の商業神・マーキュリー。マーキュリーは、ラテン語読みではメルクリウスで、ギリシヤ神話のヘルメス(フランス語読みでは“エルメス”)と同一視されている。ヘルメスは、ゼウスとマイアの子でオリュンポス十二神の一柱で、旅人、泥棒、商業、羊飼いの守護神にして神々の伝令役であることから通信の象徴ともされており、切手にもしばしば取り上げられる。
 切手には額面の表示はないが、青色は〇・六クロイツァーに相当する。切手の上部には‘新聞’を、下部には‘切手’を意味するドイツ語が印刷されており、国名の表示はないが、左側にはドイツ語の“Kaiserlich - Koenigllich”の頭文字に相当する“KK”の表示も見られる。“Kaiserlich - Koenigllich”は直訳すると“帝国にして王国(の)”という意味で、オーストリア皇帝とボヘミア王、ハンガリー・クロアチア王を兼ねるハプスブルク家の支配体制を意味している。この場合、ヘルマンEンユタットは、ハンガリー王としてのハプスブルク家の支配下にあるとの位置づけである。一八四八年の革命は帝政ロシアの助力を仰いでなんとか鎮圧したハプスブルク家だったが、その後は坂道を転げ落ちるかのごとく衰退。一八五九年にはロンバルディアを失い、一八六六年にはプロイセンとの戦争に大敗を喫し、KK体制の維持もおぼつかなぐなってしまう。そこで、彼らが打ち出したのが、KKの人口の二割を占めるハンガリー人と友好を結び、体制を維持しようとする‘二重帝国’のプランであった。かくして、一八六七年、オーストリアーハンガリーニ重帝国が発足する。これに伴い、“Kaiserlich - Koenigllich”のKaiserlich(帝国)とKoenigllich(王国)は同格に並立するものとなり、英語のandに相当するundを間に入れた“Kaiserlich und Koenigllich”の略称“K.u.K.”が使われるようになる。さて、“K.u.K.”では、オーストリア皇帝にしてハンガリー国王におわすハプスブルク家の下、 軍事・外交および財政のみは中央政府が担当するものの、その他はオーストリアとハンガリーの両政府がれぞれ独自に担当した。このため、ハンガリー政府の担当地域では従来のオーストリア切手に代わって独自のハンガリー切手が発行・使用された。
 ヘルマンシュタットを含むトランシルヴァニアはハンガリー王国に編入され、ハンガリー政府は一八六八年から、民族法や教育法をはじめとする強引なハンガリー化政策を推進。一八七六年には、ザクセン人の自治組織は廃止され、十二世紀以来の特権的民族は単なる弱小マイノリティに転落する。消印の地名表記もザクセン人が慣れ親しんでいたヘルマンシュタットから、ハンガリー語の‘ナジセベン’へと改められた。(図)第一次大戦後の一九一八年十二月一日、トランシルヴァニアは戦勝国となったルーマニアに統合され、それまでヘルマンいンユタットもしくはナジセベンと呼ばれていた都市は、ようやく、ルーマニア人の呼び名である“シビウ”が正式名称となった。図は、一九一九年十一月にシビウからオーストリアのグラーツ宛に差し出された葉書である。すでに、シビウはルーマニアに編入されていたため、ルーマニアの葉書が使われているが、大戦後の混乱の中で消印の新調が遅れ、“ナジセベン”表示の消印が使われている。その一方、戦勝国のルーマニアから敗戦国(=旧敵国)のオーストリアヘの通信として検閲を受けたことを示す印の地名は、しっかりとルーマニア語の“シビウ”になっている。
 まさに、ザクセン人たちがヘルマンシュタットと呼んでいた街が、ナジセペンからシビウヘと変化していく過渡期の状況が刻みつけられた1枚だ。第一次大戦後のシビウでは、ルーマニア人が多数派として支配的な地位を確保したが、彼らはザクセン人の権利にも相応の配慮を払っていた。とはいえ、小作農のルーマニア人を自立させるための農地改革は、結果的に、ザクセン人の土地を奪い、彼らはマイノリティとしての悲哀を味わう。第二次大戦下の一九四〇年、ナチスードイツが欧洲を席捲するなかで、ルーマニアはソ連の侵略によって占領されたブコヴィナとベッサラビアの回復を目指して枢軸国側にたって参戦。一時は、失地の回復に成功するが、一九四四年、ソ連の再侵略を受けてクーデターが発生し、新政権はソ連と和平条約を結んだ。
 ドイツ軍はトランシルヴァニアから十万人のザクセン人をソ連軍から守るため引き上げさせたが、大戦後、ルーマニアに進駐したソ連軍は八万人以上ものザクセン人たちに“ナチスの手先”との嫌疑をかけてシベリアヘ連行した。さらに、一九四八年に成立したルーマニアの共産政権は、ザクセン人の出国を‘奨励’し、彼らが出国した跡地にはルーマニア人を移住させ、ザクセン人のプレゼンスを稀釈する政策を推進した。もちろん、マイノリティの特殊性はほとんど顧慮されず、ザクセン人の権利も大きく制限されていた。一九八九年にチャウシェスク政権が崩壊し、国民に出国の自由が与えられたとき、多くのザクセン人たちは、ルーマニアから父祖の地であるドイツヘ帰っていった。その結果、現在ではトランシルヴァニアに残っているザクセン人の人口は、一九三〇年の七十五万人のI割にも満たない六万人程度にまで落ち込み、人口十七万人のシビウ市に関していえば、わずか二〇〇〇人ほどだ。
 バスがメディアシュの街を通り過ぎてしばらくすると、線路を走る貨物列車の向こうに、かつては工場だったと思しき廃屋がそびえたつ風景(図)が目に飛び込んできた。 あの上場も、ひょっとしたら、ザクセン人の労働者や技術者がいなぐなって操業を止めてしまったのかもしれない。“つはものどもが夢の跡”といった風景は、トランシルヴァニアの擬似タイムトラベルの入口としては、格好の舞台装置のような気がした。

シビウ後編

昼過ぎにシギショアラを出たバスがホテルーパルク脇のアウトガラ(バス停)に停まったのは午後二時を回ったころだったろうか。アウトガラからシビウの旧市街へ北西方向に歩いて三十分はかかるというので、タクシーを拾い、とりあえず、旧市街の外れにあたる‘民衆の壁’のある統一広場まで行く。二〇〇七年にルーマニア郵政が発行した小型シート(右上)には城壁に囲まれたシビウの古地図が取り上げられている。‘西洋’社会の東端の街として、辺境防衛のためにザクセン人が植民してつくられた街だけに、シビウは幾度となく外敵の侵攻を受けてきた。
 一二四一年にモンゴルが攻め込んできたときには、最初期の城塞は破壊され、生き延びた住民も百人ほどしかいなかったという。その後、市民は一三五〇年に街区を三十の城壁で囲み、一四五二年にはオスマン帝国の侵攻に備えて四番目の城壁を築いた。‘民衆の壁’はその一部で、市民を守るためにつくられたのが、その名の由来だという。統一広場からは、カフェ(左上)やレストランの並ぶメインストリートのバルチェスク通りを北上していけば、旧市街の中心、大広場にたどりつく。大広場でまず目につくのが、一七二六年から百二年にかけてイエズス会によって建てられた、広場の北側正面のカトリック教会(右)だ。そして、それと相対するように、南側正面には、人間の目のような煙抜きの窓が屋根に並ぶ歴史的建造物(上)が、現役のカフェやショップとして営業している。以前、ガイドブックで見た写真では、これらの建物はペンキがはげ落ちて少しうらぶれた風情もあったのだが、シビウが二〇〇七年の‘欧州文化首都’に指定されたのに合わせて修復されたのか、すっかり綺麗になっていた。
 欧州文化首都というのは、一九八五年にギリシャの文化大臣だったメぴナーメルクーリが提唱したもので、EU加盟国の文化閣僚会議でEU加盟国の中から二都市を選んで‘欧州文化首都’に指定し、一年間を通して様々な芸術文化に関する行事を開催することで、加盟国の相互理解を深めようというもの。欧州文化首都に指定されれば、世界各国から観光客が大挙して押し寄せるから、二〇〇七年に新たにEU加盟を果たしたルーマニアにとっては、EUからの何よりのご祝儀になったといってよい。当然、観光客を迎え入れるためのインフラ整備にも力が入ろうというものだ。さて、シビウの大広場での最大の見どころといえば、なんといっても、西側にそびえたつブルケンタール博物館であろう。
 ブルケンタール博物館は、ハプスブルク帝国の‘女帝’マリアーテレジアの顧問で、トランシルヴァニア総督を務めた男爵、ザムエル・フォン・ブルケンタールが一八〇三年に亡くなった後、一八一七年に彼の邸宅を博物館として一般に開放したもので、現在のルーマニア領内では最古の博物館としての歴史を誇っている。
 実際に総督が生活していた屋敷だけに、まず、建築そのものに一見の価値がある。その正面からの景観は一九七〇年の切手(次頁上)にも取り上げられているが、オーストリア・バロック様式の威風堂々たるもので、ウィーンから建築家を招き、一七七八年から八五年まで八年の歳月をかけて建造された。
 切手の写真では、若干、建物がくすんでいるように見えるが、現在は修復されてかなり明るい感じになっている。また、大広場そのものが芝生を撤去し、全面石畳とするなどの大幅に改修されてしまったため、切手とほぼ同じ角度から眺めて見ても(次頁右上)、かなり印象が違って見える。
 博物館の展示品は、総督一家の生活をしのぼせる家具調度や一族の肖像画などと、総督が集めた宗教美術や絵画などに大別される。後者に関しては、ルーマニアの三大画家とされるグレゴリスク、ルチアン、アンドレスクの作品はもちろん、ファン・アイクやブリューゲルの作品などもあって、見ごたえがあるのだが、僕としては、博物館の外観を取り上げた1枚とセットで発行された切手(次頁左上)の実物がどこに展示されているのではないかと、そちりのほうが気になって仕方がない。
 結局、切手に取り上げられた絵画は博物館の収蔵品ではあるのかもしれないが、僕が訪ねた時には残念ながら、展示されていなかった。
 そこで、スタッフに訊いてみたところ、「隣の歴史博物館に行ってみたらどうか」と勧められた。言われたとおりに歴史博物館も覗いてみたのだが、こちりは銃や刀剣などの武器や当時のトランシルヴァニアの農民の生活を再現したジオラマ展示などで、どうみても美術作品が展示されている雰囲気ではない。帰り際に、やはりスタッフに質問してみたら「そういう絵ならブルケンタール博物館にあると思いますよ」という答えが返ってきたので、それ以上、深く突っ込まないことにした。
 歴史博物館の向かいには、緑色の尖った屋根が印象的な福音教会(次頁中)がある。
 教会は、一三二〇年に建築が始まった当初はゴシック様式のカトリック教会だったが、一五二〇年に完成後、プロテスタントの教会となり、十七世紀以降、バロック様式が加味されていったという。
 教会内には、六〇〇二本の管を使用しているという南東ヨーロッパ最大のパイプオルガンがあって、ミサの時間にぶつかればその演奏も聞けるはずなのだが、僕のような短期旅行者がタイミングを合わせるのは難しいだろう。
 北側の壁には一四五五年にドイツ人のヨハネス・フォン・ローゼナウが描いたキリストの傑刑のフレスコ画もある。フレスコ画が描かれた一四五五年といえば、民衆の壁が築かれた一四五二年の三年後。十七年前の一四三八年にはオスマン帝国の砲弾がこの教会にも着弾したが大事には至らず、その弾は、現在、教会の歴史を物語る‘お宝’として、祭壇の脇に飾られている。また、この教会にはヴラド・ツェペシュ(ドラキュラのモデルとされる人物)の息子ミフネアの墓もある。一五一〇年、ミサの後、この教会を出たところでミフネアは何者かに暗殺され、ここに埋葬されたためだ。
 福音教会の北側から“嘘つき橋”という名の鉄橋を渡ると小広場に入ると、南の方向に市のランドマークとして有名な時計塔が見える。シビウの時計塔は、もとは十三世紀に市街地を取り囲む城壁の出入り口に。“参事官の塔として立てられたもので、現在の姿になったのは一五八八年のことである。塔の下には大広場と小広場をつなぐトンネルが通っていて、切手や絵葉書などに取り上げられる場合には、大広場の側からの構図が採られることも多い(右下)のだが、時計塔に上るための階段は小広場の側にある。
 塔の上から市街を一望(左下)しようと思って入口の所へ近寄ってみたところ、カギがかかっている。ふと時計を見るとすでに六時を回っており、閉館時間を過ぎてしまったようだ。そういうことなら仕方ない。せっかく、ザクセン人の街にいるのだから、さつき見かけたオープンカフェにでも行って、シビウ名物のサラミソーセージでもつまみながら、ドイツ風のビールで喉を潤すことにでもするか。

アルバーユリア前編

ルーマニアの領土が歴史上最大となったのは第一次大戦から第二次大戦にかけての戦同期の時代だが、この時代のルーマニアの領域を、“大ルーマニア”と呼ぶことがある。大ルーマニアの範囲としては、現在のルーマニア領に南ドブロジャ(現ブルガリア領。ドブロジャはドナウ川下流から黒海にかけての地域)、北ブコヴィナ(現ウクライナ領。カルパティア山脈とドニエストル川にはさまれた地域)、それに現在のモルダヴィア共和国の領域をあわせた地域だが、これこそ、ルーマニアのルーツとされる古代ダキアのエリアにほぼ相当する。一般的な理解では、現在のアルバーユリアに本格的な都市が建設されたのは、ダキアがローマの属領となった後のことと考えられている。すなわち、紀元後の一〇一-二年と一〇五-六年の二回にわたって、トラヤヌス率いるローマ帝国はダキアを攻めて勝利を収め、ダキア南部を属州とした。ローマは辺境のこの地の防衛のために四万もの大軍を駐屯させるとともに、開発のために多くの植民者を送りこんだ。こうした状況の下で、現在のアルバ・ユリアに相当する地域には‘アプルム’が建設され、ローマ第十三軍団の駐屯地として繁栄することになったのだ。9世紀になると、この地はスラヴ系言語で‘白い城’を意味する‘ベルグラード’として記録に登場する。また、ハンガリーの史書『ゲスタ・フンガロルム』には、ゲウラまたはジュラという名の君主がこの都市を開き、公国の首都を置いた記録がある。
 その後、小国分立の状態が続いていたトランシルヴァニアは、ハンガリー王イシユトヴァーンー世(在位九九七 - 一〇三八)によって制圧され、それに伴い、この地はハンガリー語の“ジュラ・フェヘールヴァール”と改名された。一五九九年十月、ワラキアのミハイ勇敢公はシビウ近郊のシェリムバルの戦いに勝利をおさめ、アルバーユリアに入城(53頁上)。トランシルヴァニア総督に就任する。翌一六〇〇年にはミハイはモルダヴィアも支配下におさめ、ここに、トランシルヴァニア・ワラキア・モルダヴィアの三公国は一人の君主の下に統合された。ミハイは一六〇一年に神聖ローマ皇帝の傭兵ジョルジョ・バスタの手先に暗殺されてしまうが、古代ダキア以来、長らく分断状態にあったルーマニア人の土地を再統合したミハイ勇敢公の偉業を再現することは、その後のルーマニア民族主義の悲願となった。
 一六九一年以降のハプスブルク家の支配下で、ジユラ・フェヘールヴァールは神聖ローマ皇帝カール六世(一七一一 -四〇)にちなんで‘カールスブルク’と改称された。これは、現在、カール六世時代の一七一六年から三五年にかけて、現在のアルバ・ユリアの歴史地区の特徴となっている七つの堡塁のある要塞が建設されたことによる。
 さて、タクンーを降りると、すぐに正教会の入り口にあたる高さ五十八メートルの塔が目に飛び込んでくる。この塔の下をくぐった正面(左の絵葉書)にあるのが、一九二二年に国王フェルディナンド一世(上・右下)と王妃マリア(上・左下)の戴冠式が行われた正教会の聖堂(53頁下及び54頁左上)だ。
 第一次大戦勃発後の一九一四年十月十日に亡くなった国王カロル一世には嫡子がなく、甥のフェルディナンド一世が国王として即位した。
 当時のルーマニア王室はホーエンツォレルン家(ドイツ皇室)の血統であったため、先代のカロル一世はドイツ側に立っての参戦を企図したが、フェルディナンド一世は戦局が英仏側に有利と見極め一九一六年八月、ドイツに宣戦を布告した。
 参戦当初、ルーマニア軍はカルパティア山脈を越えてオーストリア=ハンガリーの支配下にあったトランシルヴァニアのいくつかの都市を解放した。しかし、身内であるはずのルーマニア王室の裏切りに激昂した同盟国はただちに反撃。ドイツ軍やブルガリア軍がルーマニア領内に侵攻し、首都ブカレストを含む国土の半分はドイツ軍にじゅうりんされ、政府と国王はヤシに避難をした。この結果、ルーマニア政府は、一九一八年四月、ドブロジャのブルガリアヘの割譲や東カルパティア山脈でのオーストリア=ハンガリーとの国境線の東側への移動(ルーマニア領土の縮小)、軍隊の縮小などを定めた屈辱的なブカレスト条約を調印した。
 このとき、夫であるフェルディナンド一世を叱咤し、国難を救ったのが、熱烈な愛国者として自らも負傷兵の看護を行っていた王妃マリアだった。
 彼女の説得もあって、国王は政府の調印したブカレスト条約を批准せず、ルーマニア軍を再動員して英仏側に立って再度参戦。この結果、一九一八年十一月、第一次大戦が終結すると、ルーマニアは戦勝国としての立場を確保した。
 こうした状況の下で、一九一八年十月、トランシルヴァニアのルーマニア人たちはアラド(地図)を本拠地としてルーマニア民族評議会を結成。十二月一日、アルバーユリアでトランシルヴァニアのルーマニアとの統一に関する決議を採択する。
 そして、ヴェルサイユ会議には、‘戦士女王’として絶大な人気を誇っていた王妃マリアがルーマニアの顔として参加。領土問題に関するルーマニアの主張はほぼ認められ、トランシルヴァニアのルーマニアヘの帰属も正式に承認された。(上・右上)
 ミハイ勇敢公以来の民族の悲願を達したルーマニアは、そのことを内外に宣言するためのセレモニーとして、一九二二年十月十五日、大戦により行われないままになっていた国王夫妻の戴冠式が行われた。その場所は、首都のブカレストではなく、一九二一年に新築されたばかりのアルバ・ユリアのルーマニア正教会聖堂である。
 かつてアルバ・ユリアの正教会聖堂では、ミハイ勇敢公によるトランシルヴァニア総督就任の儀式も行われ、この地のルーマニア人にとっての心のよりどころとなっていた。しかし、トランシルヴァニアの支配者にしてカトリックを奉じるハンガリー人にとって、ルーマニア人の栄光の一コマなど、歴史上の汚点でしかない。このため、彼らは一七一三年、正教会の聖堂を完全に破壊し、ルーマニア人に対してハプスブルク体制の下では彼らが “二級市民”でしかないことを思い知らせたのである。
 こうした経緯がある以上、戦勝国民としてハンガー人の圧政から解放されたルーマニア人としては、一刻も早くミハイ勇敢公ゆかりの地に正教会の聖堂を再建したいと考えたのも当然であろう。
 さて、アーチ型の入口(上)を入ると、薄暗い聖堂の天井はネオビザンツ様式のフレスコ画(54頁右)で埋め尽くされている。正面の祭壇は彫刻が施された黒檀がベースになっており、その上品な雰囲気が、いかにも戴冠式の場にふさわしい。
 ひんやりとした堂内は、異教徒の僕でさえも、なんとなく心が洗われるような静謐な空間だった。観光地化されたシギショアラやシビウでは、こうした気分は味わえない。
 何もせずに堂内にぼんやり座って三十分ほど過ぎたころだろうか。一人の中年女性が堂内に入ってきた。彼女は僕に一瞥をくれると、そのまま祭壇に向かって祈り始めた。その姿を見た僕は、ようやく、自分が異教徒の闖入者であるという現実を思い出し、彼女の邪魔にならないよう、そっと聖堂の外にでて行くことにした。
 人った時には気づかなかったが、聖堂の出入り口両脇には、王冠を戴くフェルディナンド一世と王妃マリアの一対の肖像(左)がかけられており、この聖堂が紛れもなぐ、大ルーマニアを復興した偉大なる君主の戴冠式の場であったことを誇示している。
 薄暗い堂内とは対照的に、王と王妃の肖像は外界のまぶしい日差しを受けて明るく輝いていた。堂内の涼しさに慣れた僕は、熱波に襲われている外界の暑さにひるみながらも、要塞めぐりの次のポイントに向けて歩きだした。

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