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ドナウを東へ、黒海を目指す

MEN'S EX

ドナウを東へ、黒海を目指す

中東欧を巡る3000kmの旅

 ドイツ・ミュンヘンから始まった旅は、大河ドナウに寄り添いながら、オーストリア、ハンガリー、ルーマニアの3ヶ国を巡り、 終着点となる黒海沿岸のドナウ・デルタを目指す。
 騎馬民族の故郷、世界遺産・ホルトバージから、中欧に別れを告げ、いよいよ東欧ルーマニアヘ足を踏み入れる。 第一次世界大戦までハンガリー領であったマラムレシュ地方に残る世界遺産・木の教会群を訪ねる。  ルーマニアの北東部モルドヴァ地方からカルパチア山脈沿いに南進、デアル・マーレのワイナリーを経由し、 最終目的地の世界遺産ドナウ・デルタ、そして黒海へ向かう。 全行程約3000kmの旅が始まる。
 ドイツ南部シュヴァルツヴァルトに端を発し、中東欧を流れて黒海に注ぐ大河ドナウ。 同じく南ドイツのバイエルンで生まれたBMWに乗り、白洲信哉が世界遺産とワインを巡る旅に出る。

 ハンガリーワインを満喫し、翌日トカイから南へ60・程行った世界遺産ホルトバージ国立公園へ向かう。 プスタと呼ばれハンガリー東部に広がる大平原は欧州最大で、海のような地平線が続いていた。 ハンガリーは6月と今の10月は雨が多いということだったが、連日爽やかな秋晴れが続く。 樹木や畑もない一面の緑は、家畜の餌場である。 今でも牛飼いが牛を追い、羊の群れを誘導する姿は、騎馬民族の末裔としての貫禄充分である。 ハンガリーの有名な煮込み料理「グヤーシュ」(写真下右)は、ハンガリー語で牛飼いを意味し、 遊牧民の食卓には欠かせないものであった。また古くから良馬の産地としても知られ、 昭和天皇が好んだ御料馬もハンガリー産だった。 この地はマジャール人の祖先である遊牧騎馬民族の故郷で、小さな博物館でも当時の生活の一端を知ることが出来た。
 BMW5501ツーリングは、自然吸気大排気量エンジン独特のサウンドを奏でながら疾走する。 大柄な車体を感じさせず、精妙なシャシーは思うように止まり曲がる。 それはこのような大自然の摂理に背かずに造られたようにも感じる。

 ホルトバージから東へ、ハンガリー第二の都市デブレツェンからルーマニアとの国境に沿って北上する。 クルマのナンバープレートはH(ハンガリ古に混ざって、RD(ルーマニア)やU(ウクライナ)の印が増え、 目指すルーマニア国境の街、サツマーレの案内表示も眼に留まる。いよいよ初めての東欧圏であり、 EU外に足を踏み入れる人々は、この土地をこよなく愛している瞬間がやってきた。 国境近くになると、通関待ちの長いトラックの列を横目に、乗用車のラインに並ぶ。 通関の順番が回ってきた。少し胸が高鳴る。係官に入国の目的を聞かれたので、 事前にルーマニア政府観光局が作成した、ルーマニア語の書類を見せると、すんなりと陽気に通してくれた。 やれやれ。
 国境を越えると風景は一変した。舗装は悪くなり、建物も古びて崩れかかったものも多い。 境地のコーディネイターとの待ち合わせ場所としたバイア・マーレは、このマラムレシュ地方の中心都市と聞いていたけれど、 人影もまばらで旧式のクルマや、自転車が行き交い、特徴のない殺風景な町並みであった。 少し不安に駆られながら川沿いのホテルで夕食を摂った。ホテルの中は外とは対照的に近代化され、 頭の中は初めての異時代体験で、うまく整理がつかなかった。
 翌朝、念願だった欧州最後の秘境といわれる木造教会へと、山奥に足を延ばす。 町を出ると急峻な山々が現われ、街道をそれて山道を登ると、長閑な牧草地が広がっていた。 山や緑はますます輝きを増し、乾し草を積んだ荷馬車や、沢山の人を乗せた馬車が、 のんびりとした景色に溶け込んでいる。 すると丘の上に尖った塔が見えてきた。あれだ。近づくと木の教会の周りも同じ木の塀で囲まれ、 入り口には神父さまの木遣りの家があった。僕はしばし細長い塔を見上げていた。 ここスルデシュティの塔は、高さが72mだという。 日本にも法隆寺の五重塔のように立派な木造建築が残っているが、均整のとれたプロポーションといい、 屋根瓦や壁も何もかもが木材で出来たそれは、全く違った趣がある。石造りの教会の 堂々とした力強さはないけれど、全体から樅の木の温もりも伝わってくる。

欧州では石の文化に接することが圧倒的に多く、こうした木の文化に接することは稀だから、どこかホッした。

 小さな門をくぐり、神父さまに断って教会の内部も見せて頂くことにした。中は薄暗かったが、 小窓からうっすらと光が差し、弱々しい蝋燭の光に徐々に眼が慣れてきた。壁には彩色が施され、 祭壇と思しき最奥の壁一面には、イコンが掛けられていた。イコンとはさまざまな聖なる図像で、 仏教の仏像や神社の神像などのような信仰の対象である。素朴でロシアのイコンとも追っている。 小さいけれど掃除も行き届き、焚き込められたお香に似たいい匂いに包まれていた。

 僕はここには信仰が今も生きている、と思った。歴史的建造物の多くは保存を優先し、 さまざまな規制がかけられるけれど、ここは原っぱでは子どもが遊び、祭日には村の祈りの場になるという。 マラムレシュ地方では、村の数だけこうした教会があり、人々の精神活動の中心として位置づけられている。 日本でも鎮守の森に囲まれた神社で、一年の平安や豊作を祈り、お祭りが行われている。 遥か遠くの小丘にも同じような尖塔が見える。さっきからどこか懐かしい心地がしたのは、 日本人の祖先への記憶とどこか通じるからなのかもしれない。

 その日は時間の許す限り木の教会を見て回る。最も古いイエウドゥ村の創建は1364年で、 多くは17、8世紀に建立された。ほとんどは丘の上にあり、その周りには村人の墓地があった。 日本でいえば円墳のようでもある。欧州人も「地の果て」と言うマラムレシュの農家は、 ほとんど例外なく羊を飼い、同じ樅の家に住む。ここで暮らす人々は、この地をこよなく愛し、 最も親しい存在である樅は森の王者であり、羊は衣食を司り、神の申し子でもあるのだ。

 もう一つ眼につくものがあった。木の門である(写真上左)。小さい入口は人間用、 両開きの大きいほうは家畜用と分かれている。開いている門から中をのぞくと、 なんとなく日本の古民家へ人っていくようである。長く風雨にさらされ、 傷んだところは修復を重ね使い続けられている。民芸の味にもどこか通じているように思った。
 マラムレシュの人々は先の大戦まで歴史の大波にさらされた。ハンガリー王国、 オーストリア=ハンガリーニ重帝国、ナチスにソビエト。 道路標識にはハンガリー語やドイツ語が今でも混じっている。 悲惨な事故が起きたチエルノブイリまでも約600・程である。 しかし、物質文明の恩恵に預かることもなく、中世世界を色濃く残していた。 確かに生活は大変であろう。交通の便も悪く、品物も簡単に手に入らないかもしれない。 が、日本の土着信仰に似た宗教に支えられ、人々はゆったりと、そして素敵な顔をしていた。 飾り気はないけれど、本来の人間の生活があるような気がした。 僕はいじめ問題など存在しないという生き生きとした子どもの姿を見ながら豊かさとはなんであろうか、と改めて考えさせられた。

世界遺産を目指して

ルーマニアの悪路を駆ける

 ルーマニアは旧石器時代から人類が活動し、BCI世紀にはダキアと呼ばれる民族が定住していた。 1世紀にロ-マ帝国の属州となり、6世紀までにダキア人は、今日のルーマニアの原型を構築した。 しかし、彼らは13世紀まで歴史の表舞台から消え、そののちもさまざまな形でスラブやオスマントルコ、 ハンガリー帝国など隣国の干渉を受けた。国名は祖先であるダキア系ロ-マ人に由来し、 Romania ― ローマ人の土地」を意味する。国民の約9割はルーマニア人で占められ、 公用語のルーマニア語は東欧圏で唯一のラテン系言語である。 民族は彷徨い混血しながらも、その言語を維持してきた。

 ルーマニアは本州とほぼ同じ面積に、約二千万人が住む。「人種の堆塙」と例えられた 旧ユーゴスラヴィアに接し、黒海に臨むルーマニアは、民族が交錯し、多様な文化の影響を受けてきた。 地形も山地、丘陵地、平野に三分され、国の中天部にトランシルヴァニア・アルプスが、 東寄り南北にカルパチア山脈がそびえている。 中世ルーマニアは、トランシルヴァニア、モルドヴァ、ワラキアと三公国に分かれていたが、二つの山脈がその境界となっていた。

 今回はマラムレシュ地方からカルパチア山脈を越え、 ブコヴィナ地方に点在するもう一つの歴史的な世界遺産にまず行こうと思う。

 美しい川岸に沿って山間の道を進む。しかし、容易にはいかなかった。 道路は工畠中や、改修が済んで広くなったところ、昔ながらの細く未舗装の箇所など、状況は目まぐるしく変化した。 BMW550・-ツーリングは道路変化に応じて、鋭くきびきび反応してれるのだが、何より困ったのは、 平坦で快適な道に突如として穴が開いていたり、力-ブの先に悠々と歩く山羊や羊の集団が現われたりすることだった。 僕はしばしば踏み込めば即応するブレーキに助けられた。特に夜、暗闇の中で眼だけが不気味に光る生き物たちと、 突如出くわしたりするので、必要以上に神経を使わねばならなかった。

 余談だが、このクルマにオプション装備された「BMWナイト・ビジョン」という、 遠赤外線で温度を感知するカメラのシステムは重宝した。暗い夜道での障害物を熱で感知して、 そのイメージを車内のナビ画面に映し出す。いち早く歩行者の動きを発見するために搭載されたのだろうが、 外灯のない土地での威力も抜群であった。
 そんなこんなで、我々は予定より大幅に遅れて、この地方で一番ホテルの数が多いグラ・フモール近くの宿に着いた。 辺りはすっかり日も暮れ、真っ暗だった。ルーマニアには有名なドラキュラ伝説が残っているが、満天の星空に浮かんだ 満月を見ていると、妖しい気分になってくる。運転に神経を使ったので、過敏になっていたのかもしれない。 僕はネオンーつない静かな片田舎が、明日どんな表情を見せてくれるか楽しみであった。

 翌朝は寒かった。ロビーではホテルの人が暖炉に薪をくべていた。今日も朝ご飯は新鮮な野菜とバターが出された。 形は不揃いで素朴だが、素材が本来もっている味というのか、本当に旨い。ルーマニアでは10月を霜月といい、 冬に備える時期でもある。路上のあちこちでは、西瓜が売られていた。案内の人に聞いたら、 野菜や果物はキロ単位で売っているそうだ。きっと食べきれないほど収穫できてしまうのだろう。 流通さえ整えば、ルーマニアの野菜や果物は、輸出産業として成り立つようにも思えた。

 さて、宿を出て、念願であった5つの修道院を目指す。牧歌的で緑にあふれた大地は所々色づき、 短い秋本番である。彩の丘陵地帯を行くと塀に囲まれたモルドヴィツァ修道院が見えてきた。 狭い門をくぐると中庭は綺麗に整備され、その先に壁面を極彩色に塗られた僧院があった。 朝日を浴びているせいか、不思議な輝きを放っている。 壁という壁には聖人の肖像画や、聖書の一場面が描かれ、陽を浴びた壁面は戦闘の場面で、コ ンスタンチノープル攻防の図だという。内部も聖母像をはじめ圧巻であった。

 僕は未だかつて、このような祈りの場を見たことがない。カトリックなどのキリスト教会でも、 内部に宗教的なフレスコ画が描かれていることはあるけれど、このモルドヴィツァ修道院のそれは、 なんと外部までびっしりと描かれ、しかも独創的で壮大な構図であった。1532年再建と聞いて、 何世紀もの間、風雪に耐えてきた事実にも、また驚かされた。

 僕は異文化の装飾芸術にしばし見とれていた。すると修道女の透き通ったミサの声が聞こえてきた。 前号で紹介したマラムレシュの木の教会と比べれば、建物全体は煌びやかで対照的に映るが、 今でも信仰の対象であり、信仰の場であることは、同じである。続けて、スチェヴィツァ、アルボーレ、フモール、 ヴォロネツ修道院と足早に巡ったが、多少の差異はあれ、どこも素晴らしい装飾の洪水だった。

 それにしても、何故このような特異な修道院が造られたのであろうか。そこにはルーマニアの地政学的な宿命があるように思う。

 中世に隆盛を極めたオスマントルコは、バルカン諸国を支配し、ビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルを占領した。 東西南北の十字路にあるルーマニアは、トルコ軍の欧州前進を阻止する重大な使命を担った。 モルドヴァ公国のシュテファン大公は、指導力を発揮しトルコ軍の侵攻を阻み、その子ペトゥル・ラレシュ公も自衛に励んだ。 一方で、美術に対する造詣も深く、教会を豪華に、そしてマントのように豊かな色彩で覆い、 ひとつの様式を完成させた。当初は字の読めない人々のために、聖書としての役割を担ったかもしれないが、 それ以上にオスマントルコという強大な外敵への恐怖心から自国を守るための、国民の思想統一の大きな柱であったのだろう。 生死を賭した芸術が美しくないはずがない。信じること-それが何物にも通じることだと改めて思った。

 ここモルドヴァ地方には、旅のもう一つの大きな目的であるワインの産地がある。ルーマニアーのコトナリである。 モルドヴァ公国の首都でもあったスチャヴァから、公国の新しい首都となったヤシヘ抜ける途中にあった。 先の修道院建設と同様に、シュテファン大公がワイン造りも奨励し、自らの離宮をコトナリの生産地とした。 欧州の王侯貴族に愛飲されたという点では、ハンガリーのトカイワインに似た位置づけなのであろう。

 ちょうど収穫の時期で、畑や工場内を案内されたが、何より度肝を抜かれたのは、ワインの樽の大きさである。 共産時代に質より量を求めた名残であろうが、大きなものになるとその容量はなんと1万L!だという。 僕はモルドヴァ公国の2つの大きな遺産に、ただただ圧倒されるだけであった。

久しぶりに再会するドナウ、どんな姿になっているだろう

 ルーマニアは世界第12位のワイン生産量を誇り、気候的に恵まれフランスの主要なワイン産地とも同緯度である。 ワイン作りの歴史も古く、五、六千年前のワイン容器も出土し1ローマ神話におけるワインの神様バッカスは、 ドナウの北、モルドヴァ地方出身だとの言い伝えもある。

 主なワインの生産地は、前号までに紹介したジドベイとコトナリを含め四つある。最終回となる今回は、 残りの二つの産地を巡り、いよいよ黒海まで旅することにする。

 モルドヴァ公国の首都だったヤシ郊外のワイナリー「フジウム」から、モルドヴァとの国境沿いをプルト川に沿って南下しよう。 と、地図を開きながら思っていた。プルト川はガラツィ近くでドナウと合流するのである。 しかし、ガイドさんや蒸留所のアンゲルさんの話では、近年の洪水で道路が寸断されているかもしれないとのことだった。 僕はルートを変更して、カルパチア山脈に沿って南下し、まずデアル・マーレと呼ばれるワイン産地に向かうことにした。

 山脈の南東に広がる穏やかな傾斜面の丘は、1万5000ヘクタールほどの葡萄畑が延々と連なっている。 白ワインだけ生産している地域もあるが、主に赤ワインに力を入れている。その一角にサーブ社があった。 まだ設備も真新しく、ここもちょうど収穫の時期で、採れたての葡萄をジュースにしているところだった。 良質のワインで知られるコルシカ島出身のボア社長が、熱心に、また気さくに説明してくれた。 久しぶりに再会するドナウ、どんな姿になっているだろうルーマニアは世界第12位のワイン生産量を誇り、 気候的に恵まれフランスの主要なワイン産地とも同緯度である。 ワイン作りの歴史も古く、五、六千年前のワイン容器も出土し1ローマ神話におけるワインの神様バッカスは、 ドナウの北、モルドヴァ地方出身だとの言い伝えもある。

 主なワインの生産地は、前号までに紹介したジドベイとコトナリを含め四つある。最終回となる今回は、 残りの二つの産地を巡り、いよいよ黒海まで旅することにする。

 モルドヴァ公国の首都だったヤシ郊外のワイナリー「フジウム」から、モルドヴァとの国境沿いをプルト川に沿って南下しよう。 と、地図を開きながら思っていた。プルト川はガラツィ近くでドナウと合流するのである。 しかし、ガイドさんや蒸留所のアンゲルさんの話では、近年の洪水で道路が寸断されているかもしれないとのことだった。 僕はルートを変更して、カルパチア山脈に沿って南下し、まずデアル・マーレと呼ばれるワイン産地に向かうことにした。

 山脈の南東に広がる穏やかな傾斜面の丘は、1万5000ヘクタールほどの葡萄畑が延々と連なっている。 白ワインだけ生産している地域もあるが、主に赤ワインに力を入れている。その一角にサーブ社があった。 まだ設備も真新しく、ここもちょうど収穫の時期で、採れたての葡萄をジュースにしているところだった。 良質のワインで知られるコルシカ島出身のボア社長が、熱心に、また気さくに説明してくれた。

黒い森から黒い海ヘ ― 大河ドナウは息もつかずに流れている

 案内のかたが、せっかくなのでガラツィからドナウを船で渡ろうという。日本でいう「渡し舟」というやつだろうか?
 言われるままに行くと、何十台も積載できる大きなフェリーが停泊していた。辺りは真っ暗で不気味な静けさだった。 対岸の明かりは薄らとついているように思ったが、「川」というより「海」という感じだった。日本人が物珍しいのか、 夜だというのに陽気な船長?が、操縦席に招いてくれた。「このレーダーは日本製で、闇夜で唯一の頼りなんだ」といい、 「冷戦の最中は、警備の船が沢山いたが、今は平和なもんだ」と微笑んだ。このまま下流に行けば黒海からロシアにも続いている。 僕は少し不安になり緊張した。10分くらい経つただろうか、船は無事対岸に接岸した。その晩は予約した宿があるトゥルチャまで、 いつ着くかと思いながら、暗闇に眠るドナウに寄り添って、ひたすら走ったのだった。 翌朝は快晴。朝から澄んだ青い空だった。 ここトゥルチャから先、ドナウは大きく三つに分流し、無数の支流とともに、大湿原地帯を形成する。 陸路はなく、舟で進むより仕方がないという。ドナウ・デルタを長年研究しているかたに案内を頼み、小舟で出掛けることにした。

 久しぶりに出会ったドナウは、湾のように大きかった。やはり、海としか思えない。船頭が、「どこに行きたいのか?」と言うので、 黒海を望むスリナまで行きたいと返事をした。すると「トンデモナイ/・」という表情をして、 この舟だと往復一週間、一番速いホバークラフトでも日帰りはできないと呆れた様子であった。 この大三角洲ドナウ・デルタは、総面積はなんと重患都の2・5倍で、陸地はわずかに一割強。 雨季と乾季では水位が2mも違うという。説明を聞いてもまるで実感がわかないので、一日適当に漕いでもらうことにした。

 本流からジグザグに分かれた支流を行くと、両岸にはキャンプをしたり、釣りを楽しんだりする人々。 一方では牛や豚など家畜も休息する野生の王国だった。何より目についたのは、 湿地帯を日本では少なくなった葦が覆い、枝分かれした小川や湖沼は、水鳥の楽園だったことだ。 「自然の宝庫」とは耳慣れた言葉だけれど、ここまでビックリする風景は滅多にない。 近年の洪水は、人間の生活を妨げたが、デルタには新たな恵みを運んだようである。 ここには人の都合で開拓したりする余地のない、欧州で最も辺鄙で未開な、ありのままの原始があるのだと思った。

 ドナウ。黒い森を意味するシュヴァルツヴァルトから息もつかず流れている大河と、随分長い旅を続けてきた。 かつてそこには幾つもの民族の盛衰があった。ただ一つだけ、この全流域を支配した民族があった。 古代ローマ人である。統治は四百年にも及び、旅してきたウィーンやブタペストの古都の多くも、 ローマ人が異民族に備えた砦が発展したものであった。黒い森から黒い海へ。そして古代ローマ時代から延々と続いたワイン文化。 東西欧州において欠かすことのできなかった自然からの贈り物、それは現代においても変わることなく続いていた。 僕は旅の終わりに黒海を見ずにはいられなかった。トゥルチャから一気に南下し、ヒストリアの古代遺跡を抜け、 エフォリエという黒海沿岸のリゾート地まで足を延ばした。「黒い海」はキラキラと明るく輝いていた。
僕は朝陽の向こうにある遠い祖国を想った。

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