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ルーマニアを旅するAtoZ

SevenSeas 2011年11月号

A【ARTIZANAT(手工芸)】民俗文化を訪ねる旅ヘ

 ルーマニアの旅の醍醐味は地方旅行にある。もちろん首都ブカレストもけっして見所のない街ではない。
かつて「バルカンの小パリ」と謳われた美しい街並みの多くはチャウシェスク時代に破壊されてしまったが、それでも旧市街の面影がすべて失われたわけではない。
 ルーマニア全土の農村風景を再現した「農村博物館」(野外)をはじめ、各種博物館の展示には興味深いものが多く、そのほかにも、この国を理解するためにはずせないキー・スポットがブカレストにはいくつもある。
 だがそれでもなお、ブカレストだけでルーマニアを語ることは不可能である。 ルーマニアの地方文化の豊かさは特筆すべきものがあり、とくに最北部、東カルパチア山脈に守られたマラムレシュ地方の風俗は格別で、のどかな田園風景、独特の屋根の木造教会の数々、木彫りで飾られた民家の門などとともに、旅する者は、そこに生きる人々の生活そのものに新鮮な驚きを感じるだろう。そこには中世以来の生活様式がまだ息づいていると言われている。もちろん、彼、彼女たちもいつも民族衣装を身に着けているわけでほないが、祭りや結婚式、日曜日の教会での礼拝や月曜日の動物市など、まだまだ民族衣装が登場する機会は多い。
 ルーマニアの地方文化の多様性を支えているのが、ハンガリー系、ドイツ系といった民族の違いだけでなく、むしろ村ごと、集落ごとといった地方色の豊かさであることに注目したい。

B【BUCOVINA】プコヴィナの修道噴霧

 北東部、ウクライナとモルダヴィアに国境を接するモルダヴィア地方は、かつてモルダヴィア王国が栄えた一帯で、その最盛期はシュテファン大公の時代(在位一四五七~一五〇四)にあった。
 そして、その王国の最も輝かしい遺産こそが、都が置かれたスチャヴァの町にほど近い丘陵一帯に点在する彩色修道院の数々にほかならない。
 その礼拝堂のいくつかには外壁にまでフレスコ画が描かれており、保存状態のよい「五つの修道院」がとくにその名を知られ、ユネスコの世界遺産としても登録されている。
 外壁にフレスコ画を描いたのは民衆への教化のためと考えられているが、詳しいいきさつや、今日まで命脈を保ちえたフレスコ画の技法についても詳細は不明で、専門家の注目を集めている(ただし壁面によっては、残念ながら図像が判別できないまでに褪色が進んでいる)。
 ヴォロネッツィ修道院は、一四八八年にシュテファン大公の別荘として建てられたもので、一五四七年、ロスカ司教の命により、無名の僧侶たちの手でフレスコ画が制作された。その基調となる美しい「青」は、「ヴォロネッツィ・ブルー」として世に知られ、同修道院は「青の修道院」と呼ばれることも多い。
 とくに西側外壁に描かれた「最後の審判」が白眉である。場面は大きく五つの階層に分けられており、その最上層には全知全能の神が描かれ、その次の階層には裁きの神としてのイエスが描かれている。イエスの足もとから発した地獄の割れ目へと続く火の川(血の川)に溺れる罪人、秤にかけられる魂、祝福され天国に至る者、聖人や天使……。
緊張感のある見事な構成が完結した宗教画の世界を生み出している。
 フモール修道院は、一五三〇年、ブブイオグ首相の命によって建てられた修道院で、先のヴォロネッツィ修道院と、グラ・フモールの町を挟んで対峙している。この修道院は、正面入口が大きく聞かれた様式を、モルドヴァにおいて初めてとりいれた建築物であり、赤い陰影が美しい外壁の装画は、一五三五年に、宮廷画家トーマらの手により制作されたものである。「赤の修道院」と呼ばれることもある。
 フモール(奇妙な)という名の由来は、礼拝堂入口に描かれた「最後の審判」のなかで、死者の魂の軽重(善悪)を量る天秤を、自分のもとに引き寄せようとする悪魔のどこかコミカルな図像に由来するという。
 モルドヴィツァ修道院は、一五三二年、シュテファン大公の息子ペトル四世によって建設されたもので、四角形の敷地内には塔が建てられている。黄色が美しい外壁の装画は一五三七年に制作されたものである。
 外壁画中、よく知られているものに、ビザンチン帝国の首都として栄え、たび重なる異教徒の襲来にも不落を誇ったコンスタンチノープル攻防の図がある。1453年、コンスタンチノープルはついにオスマン・トルコの手に落ちたが、その歴史は、実際にオスマン・トルコの脅威に晒されていたモルダヴィア王国の人々にとっては、特別に深い意味を持っていたに違いない。その図は本来626年のペルシア軍襲来を描いたものだが、異教徒の兵士たちの装備や風貌は、当時のトルコ兵を反映している。
 スチェヴィツァ修道院は、五つの修道院中、最大の規模をもつもので、一五八一人六〇一年にかけて建設された。四角形の敷地内には塔が建ち、赤と緑が美しい基調をなす外壁の壁画は一五九〇年ごろに制作されたものである。
 その中で最も眼を引くのは、北側の外壁に描かれた多くの天使たちと梯子を上る修道士たちの図像であろう。これも「最後の審判」を描いたもので、創世記の中で記述されているヤコブの見た、その頂が天に達し天使たちが上り下りしている「梯子」の幻に由来する。
 アルボーレ修道院は、スチャヴァの行政長官ルカ・アルボーレによって一五〇三年に建設されたもので、五つの修道院の中で最も規模が小さい。また外壁の傷みも進行しており、現在大規模修復が行われている。緑の陰影が美しい建物内外の装画は、一五四一年に制作されたものである。
 なお、五つの修道院はすべて女子修道院であり、現在も多くの修道女が敬虔な信仰生活をおくっている。

C【CIOBAN】羊鯛いの不思議な生活

 森林地帯を車で旅すると、時としてチョバンと呼ばれる羊飼いに出くわす。多くの羊と犬を連れた彼らは、明らかに里の人々とは異質な風体で、どこか浮き世離れした雰囲気がある。
 彼らは定住生活をしておらず、あちこちに点在する仮小屋やチーズをつくるための小屋などを拠点に、季節に応じて羊を追いつつ森の中を転々として暮らしているという。
 右下の写真は、彼ら羊飼いたちが使っていた伝統的な木製のコップである。カオックと呼ばれるもので、特徴ある持ち手には魔除けの意味が込められており、太陽(丸に十字)、植物、魚の尾などが象られている。
彼らにとって清らかな水は何にも代えがたい貴重な天の恵みであり、魂を清めるものでもあった。一方で濁った水から邪悪な霊が体内に入ることを恐れたのだ。

D【DELTA DUNARII】野鳥の宝鷹ナウ・デルタ

 ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルトに源を発し、本流が流れる国だけでもヨーロッパ大陸八カ国を貫流して黒海に注ぐドナウ川。このヨーロッパ第二の長流がその最下渡部で生み出す大三角洲は、野生生物の宝庫であり、とくに渡り鳥の憩う広大な湿地帯として世界的に名高い。その総面積は東京都の二倍ほどにおよび、数えうる鳥類は三百種以上とされ、ヨーロッパ唯一のペリカンの群棲地としても知られている。
 ここでの観光は、旅行社が運行するボートでの遊覧(トゥルチャが基点)や船上からのにわかバード・ウォッチングが中心だが、湿原の中は無数の運河や水路が入り組んでおり、小さな舟なら奥地へと自由に入っていける。時間に余裕があれば、そうした小舟をチャーターし、巨大ナマズなどを釣り上げるのもよろしかろう。

E【EROI】吸血鬼か英雄か串刺し公の謎

 アイルランド生まれの小説家プラム・ストーカーが著した『吸血鬼ドラキュラ』二八九七)が、15世紀に生きた実在の人物ヴラド三世に取材したものであることはよく知られている。
 しかしこの人物は、ルーマニア人にとっては、侵略者オスマン・トルコに敢然と立ち向かい、国の独立のために戦った歴史的な英雄呈ロイ)にほかならない。
したがってルーマニア人は、彼に対してよく使われる「串刺し公」という呼び名も通常は用いないようだ。
 吸血鬼の物語は、ドイツに流れ及んだヴラド伝説をもとに、ストーカーの想像力の中で生みだされたものであり、執筆にあたっても、彼は現地の実見調査などは行っていない。さらにそこには、スラヴ民族に根強く語り継がれていた吸血鬼伝説がないまぜになっており、その後もさまさまな誤解と空想と観光資源としての思惑が入り交じり、ヴラドの人間像はすっかり歪められてしまったきらいがある。
ここでは歴史的人間としてのヴラドを検証してみよう(なお、以下の歴史記述はルーマニア大使館のインターネット、ホームページ内に収録されている解説を、抜粋翻案し、補筆修正後、多少の注釈、捏造を加えたものである)。
 1431年2月8日、王権を象徴する笏を手にしたワラキアの貴族たちは、帝国議会のあるニュルンベルク市に暮らす人々を、ある重要な歴史的行事に参加させた。ワラキアの統治権が、ルクセンブルク皇帝ジギスムントからヴラドニ世(ヴラド三世の父)に渡されたのである。その日、皇帝ジギスムントは、大切にしていたネックレス、ドラゴンが彫り込まれたブレスレット、魔術に使われる動物の名が付けられたナイトの記章をヴラドにゆずった。即位式を待つあいた、ヴラドは家族とともにトランシルヴァニアのシギショアラに趣いた。
最初に通った二力所の修道院で、.ヴラドはブレスレットに刻まれたドラゴンを印鑑に使った(当時は、こうしたものを認印として使っていた)。このため、ヴラドは、「ドラクル」(ラテン語の「DRAC0-ONIS(ドラゴンの通行税)」より)というニックネームをつけられた。
 ところが、ラテン語のDraco(ドラゴン、蛇のふたとおりの意味をもつ)は、ルーマニア語で「悪魔」をあらわす語の語源ともなった言葉であったため、彼はいつか、Vlad Dragonul(ドラゴンのヴラド)ではなく、Vlad Dracul(ヴラド・ドラクル、悪魔のヴラド)と呼ばれるようになった。そして、ヴラドの息子(次男)ヴラド三世は、「ドラキュラ」という異名をもつに至ったのである(語尾のaは「息子」を表す接尾語)。つまりもともとは、「ドラクラ(英語でドラキュラ)」は「悪魔の息子」ではなく、「ドラゴンの息子」の意味であったのだ。
 ドラキュラは、ルーマニア国を統治していたバサラプー族の子孫であり、有名なミルチャ(老公)の孫にあたる。父のヴラド・ドラクルはミルチャの私生児であったため、嫡男の一族(ダンー族)とドラクルー族とのあいだで、イギリスのバラ戦争のように王座をめぐる血生臭い争いが繰り広げられていた。なお歴史的には、父ヴラドは「ヴラド二世」、その次男のヴラド(ドラキュラ)は「ヴラド三世」と呼ばれている。
 ヴラド三世(こからは次男の話)は、シギショアラで育ったのち、トルコにて六年間を人質として過ごした。のちに、おじにあたる当時のモルドヴァ公ボクダンニ世を頼ってモルダヴィアに趣き、さらにその後、トランシルヴァニア領ブラショフにトランシルヴァニア領主ヤノシュ(のち、ヴラドは彼の娘と結婚)を頼って亡命。そして1456年8月22日、ワラキア公に就任する。
 当時、オスマン・トルコ帝国が最も恐れる敵のひとりとして知られていたヴラド・ドラキュラは、国の組織化、軍隊と法律の整備を推し進め、さらに、追いはぎ、泥棒、乞食、悪徳僧、特権を濫用していた地主貴族、いとこにあたるダン三世や自分の異母弟ヴラド完修道士)を王位に据えようとたくらんだザクセン人(サクソン人)など、敵とみなした者を容赦なく死刑に処し、見せしめのために串刺し刑を執行していた(一説にはその数は二万人に及んだという)。とくに祖国を捨てて敬仰に寝返る可能性のある信用のおけないトランシルヴァニアのザクセン人(サクソン人)に対する制裁は熾烈を極めた……。
 ドラキュラの悪名、そして残忍なバンパイヤの伝説は、こうしてトランシルヴァニアのザクセン人によって培われていったのだ。またあるいはヴラド自身も、そうした風評を敵への威嚇として利用したのかもしれない。
 こうして、オスマン・トルコの歴史家たちは、彼にVlad Tepes ヴラド・ツェペシュ(ツェペシュはルーマニア語で「串刺し」の意味)というニックネームをつけるに至ったという仕儀である(もっとも串刺し刑は、もともとオスマン・トルコの得意とするものでもあった)。
 1462年、ヴラドは、彼を憎む義兄マチャーシュ・コルヴィヌス(ハンガリー国王)によって捕えられ、ブダ(ハンガリーの首都)の近くにあるヴィシェグラード城砦に十年以上ものあいた幽閉された。しかし一四七四年、モルダヴィア公シュテファン、ヴェネツィア共和国上院、ローマ教皇シクストス四世らの援助によって釈放され、1476年、再びワラキア公の座につくや、ヴラドはすぐにオスマン・トルコヘの攻撃を再開するが、同年の終わり、次期ワラキア公になるライオタ・バサラプに殺害されてこの世を去った。
 その波乱に満ちた生涯と、彼が与えた残忍な刑罰は、ルーマニアをはじめ、ス口ヴエニア、ドイツなどヨーロッパ中に知れわたり、あるいは誇張され、長く語り継がれることとなったのである。
 ところで、ヴラド三世ゆかりの地は、ルーマニア観光では欠かせない名所となっている。
 十五世紀中世の面影が色濃く残されたシギショアラの街では、彼の幼少時代にタイムスリップすることができるだろう(彼の生家は現在レストランになっている)。町の郊外には彼が犯罪者たちを処罰した悪評高き絞首刑台があった場所もあるという。
 ブラショフの近郊にあるプラン城は、ドラキュラの居城として知られているが、実際にはヴラド三世はそこを数日間訪れたにすぎないようだ。だが、周辺には戦火の火種となった、ワラキアとトランシルヴァニアの境界を示す壁の一部が残されているなど、歴史的に重要な拠点であったことは確かである。
 そしてワラド三世の墓は、ブカレストから車で約三十分ほど北に足を延ばしたスナゴフという町の小さな湖に浮かぶ島にある。ちなみにその湖畔は、過去から現在に至るまで、多くの特権階級を惹きつけた高級別荘地であり、島へと向かう船からは、チャウシェスクのかつての広大な別邸を垣間見ることができる。
 さて、この湖の島には、ヴラド三世が生涯で唯一建造した教会があり、その礼拝堂の奥まったところに彼の遺体が収められている墓がある。しかし期待に反してその墓は、墓碑銘もない、ただの白い石棺(埋められているので、見た目には単なる床石)たった。現在教会は修復中で雑然としていることもあって、そのそっけない様子は、実在する「ドラキュラの墓」という幻想からはかけ離れて映っかが、そのあたりに逆に何か妙なリアリティを感じることができるかもしれない。

F【FAN】なぜかなつかしい干し草の光景

 ルーマニアの田舎を旅すると、この「フン」と呼ばれる干し草のスタックが心に残る。
 ルーマニアの厳しい冬を乗り切るため、牛や馬など家畜のために貯蔵される貴重な保存食糧であるが、そのどこかユーモラスな形が親しみを誘うのだ。一本の木を芯にして、刈り取った牧草を巧みに積み上げて作られており、形そのものが雨露をしのぐ役目も果たしているらしく、とくにこれをサイロに蓄えるというようなことはしないらしい。
 また、夏から秋にかけて、干し草を山のように積んだ馬車に行き会うことも珍しくない。田園の中を夕陽を浴びて悠々と行く馬車の風情もまた格別である。
 取材途中、谷々を見渡す限り、どこまでもフンが続く景色に出合った。日没に近く、雲間からこぼれ落ちた弱い日差しが、還くの集落を照らし、無数に点在するフンのひとつひとつに、うっすらと影を与えている。その美しい景観は、どこかなつかしく、郷愁を感じさせるものだった……。

G【GYPSY】ジプシーたちの運命と末釆

 もともとヨーロッパ人のようにはジプシーに偏見のなかったわれわれ(日本人)も、何度かその餌食となると(なにせ彼女らは鋭い鑑定眼でおひとよしの日本人を通りの向こうのほうからすばやく見つけ、カモが来たとばかりにっこりほほえんだりする)、ジプシーという名にロマンティックな幻想ばかり抱いてはいられなくなる。しかし、ルーマニアの農村で出会った彼女らは、時代錯誤と言うべき気合いの入った幌馬車も手伝って、むしろかつてわれわれが抱いた哀しき、そして自由気ままな漂泊民ジプシ1のイメージに合致する人々のように思われた。
なにせ食べ物は周囲にたくさんある(誰のものかは知らない)し、幌馬車を止める場所にも困らない。
 しかし近代化の波が彼女らの漂泊生活をしだいに難しくしていることは想像に難くない。最近は彼女らも世知辛い世の中に生きていて、冬季食べ物を求めてドイツの国境を渡り、公園で保護されている白鳥を食べたりして、ルーマニアに強制送還されるなどということもあるらしい。
 歴史的にも彼女たちの運命はけっして平坦ではなかったことも追記しておこう。  ルーマニアの作家ザハリア・スタンク(1902‐1974)の小説『Satra』(『ジプシーの幌馬車』として邦訳がある。恒文社刊)は、第二次世界大戦下のルーマニアのジプシーたちの運命を描いたものである。大戦中のユダヤ人たちに対するホロコーストの悲劇は多く語られてきたが、ジプシーたちが被った、同様の、ある場合にはもっと過酷だった運命についてはあまり知られていない。この作品は、そうしたジプシーの大量虐殺の歴史を下敷きにしつつ、その歴史の奔流の中でもなお誇り高くあろうとする彼らの生きざまを活写している。
ちなみに原題の「シャトラ」とは、漂泊生活の単位となる一族の集団を指す言葉であり、ひとつのシャトラはひとりの族長の指揮によって統率されていた。

H【HISTRIA】紀元前のギリシア人の遺跡

 黒海沿岸のコンスタンツァから北へ約七十キロほどの地点で、思いがけずも古代ギリシアの残照に出合う。このビストリアの遺跡は、紀元前六五七年にギリシア人によって建設された都市の遺構で、シノエ湖のほとりの丘陵に広がっている。
 神殿跡、ローマ風呂の跡、住居跡など、さまざまな機能をもち、水道施設も備えていた高度な都市だっかが、ゴート族、スラヴ族などの侵入、土砂の堆積による地形変化などで、七世紀後半に町は放棄された。
 発掘された煉瓦積みのアーチなどは、まるで最近造られたかと思えるほどの保存状態。遺跡の周辺は一面荒れ地が続いており、大理石の石柱などがならぶ敷地を歩くと不思議な時間感覚を覚える。
 なお、発掘場所の近くには展示館があり、大理石の彫刻やレリーフ、碑文、テラコッタの女性像、陶器類、コインなど、数々の出土品を見ることができる(コンスタンツァの考古学博物館が管理している)。

I【ICOANA(イコン)】素朴な美しさガラスのイコン

 「ガラスのイコン」は、いわゆるガラス絵の技法を用いて作られた聖画像で、専属の絵師や僧侶によってではなく、農民の手で生み出されたものである。 ガラス絵とは、支持体となる透明な板ガラスの裏面に図像を不透明絵具で描き、ガラスの表面から鑑賞するもので、通常の絵画とは逆に、前に描かれるものから順に絵具を置いて制作されていく。世界的に見ると透明な板ガラスが生産され、油絵技法が確立した十四世紀以降に発展したもので、当初より宗教画に利用されてきた。
 ルーマニアの「ガラスのイコン」の制作は、ニクラという小さな村で十七世紀前後に始められたと考えられている。その絵具には、鉱物性のものと植物性のものが混用されており、赤土の赤、コバルトの青、亜鉛の緑、石膏の白、煤による黒のほか、草木に由来するものも加わるが、すべての素材や技法が解明されているわけではない。
 イコンとはいえ、描かれている内容は、東力正教会の正続的なイコン(聖画像)とは少々趣が違うものも多く、誘惑(アダムとイヴ)、キリスト誕生、最後の晩餐など、むしろ西欧キリスト教絵画の画題に属するものも含まれている。だが、それがイコンと同様のある種の形式美に昇華されているあたりは、単なる物語り絵画とはまた別の趣がある。なお時代を経ると、ガラス絵は、宗教的題材を離れた生活芸術としても発展していった。
 その素朴な味わい、一定の形式を踏みながらも、けっして単なる模写ではなく、おおらかな筆致と大胆な色遣いを見せる多様な画面は、ガラス絵独特の透明感や明瞭な輪郭による構底力とともに、不思議な魅力に満ちている。
 なお「ガラスのイコン」は、使用されている古い製法の板ガラスが壊れやすいものであることに加え、民俗的な作品であったためその価値が認識されるのも遅れ、その保存状態は必ずしも十分ではない。総合的な研究もまだ途上にあるという。なお「ガラスのイコン」はルーマニア各地の博物館で見られるが、取材したシビウ郊外の「ガラスのイコン博物館」の所蔵品は、種類、数ともに多く、すぐれたコレクションのひとつである。

J【JAPONIA(日本)】日本とルーマニアの古い紳

 日本とルーマニアが実際に邂逅するのは、明治維新後のことであったが、その以前にもルーマニア人には日本の存在は知られていた。ルーマニアの文献中、日本についての最も古い記述は、モルドヴァの貴族ミレスクが17世紀後半に『中国旅行記』の中で記したものとされている。写真の本は、それから少し時代を繋が、ニコラ・ニコライなる人物が記述した見聞録(ヨーロッパ、アフリカ、アジア、アメリカの四章からなる)で、そこにはオランダの地で知った(おそらくは噂話を聞いた)日本人の資質についての記述が一項目を設けて残されている。この極東の島国に住まう奇異な民族は、彼らにはよき民族に思えたらしく、「日本人は礼節のある人間で、勤勉にて、発関心に富む」云々とほめてあり、さらには「妻は夫に従順であって、よく貞節を守り、夫が死去した場合は、自らも自刃してあとを追う」とし、そういった風俗を、むしろ感嘆をもって、好意的に記述している。著者のニコラ・ニコライは、1800年、ブラショフの聖ニコラエ教会の敷地内にあるルーマニア最古の学校(1495年建設/1760年再建)の教授となった人物で、彼は各地を旅行し、フランスではナポレオンとも知り合い、ルーマニアで初めてナポレオンについての著述も残していうという。
なおこの書はルーマニア語ではあるが、キリル文字(口シア字母の原形)で書かれている。
 なお、この日本についての記述がある書籍は、聖二コラエ教会敷地内の博物館に収蔵されている。

K【KISS GATE[英]】プランクーシの故郷を訪ねる

 彫刻家コンスタンティン・ブランクーシ(CON‐STANTIN BRANCUSI1876‐1957)は、ルーマニアが生んだ最も著名な芸術家であり、その作品は、二十世紀の抽象彫刻に決定的な影響を与えた。
 彼の生まれ故郷は、ブカレストから遥か西へ四百五十キロほどに位置するホビツァという小さな村であリ、そこには彼の生家が保存されている。
 彼はブカレストの美術学校で彫刻を学んだのち、一九〇四年パリヘ移り(ほとんど徒歩でたどり着いたという)、以後パリを基点に創作活動を行った。初めロダンを模範としたが、やがて写実的な手法を離れ、形態の単純化に基づく、新しい彫刻世界を切り開いていっ 彼の生み出した形態にば、すでに指摘されていることだが、ルーマニアの中世の石彫りや農民の木彫りなどの影響が見られる。
たとえば、彼の生まれたオルテニア地方に多く見られるストゥルピと呼ばれる、どこか日本の卒塔婆にも似た墓標や、ルーマニア各地で見かけるさまざまな十字架の形態には、彼の作品を彷彿させるものがある。また、彼の代表作のひとつである《空間の鳥》の連作は、ルーマニアの伝説上の鳥マイアストラをイメージしたものだったという。
 ホビツァ村に近い町、トゥルグ・ジウの中央公園には、写真の《キス・ゲート》(邦題では《接吻の門》ともいう、1938年)、《沈黙のテーブル》のふたつの作品が置かれており、そこからーキロほど離れた別の町外れの公園には、戦没兵士のための記念碑でもある《無限柱》(1937年、高さ29メートル)がある。ただし《無限柱》は、現在修理中で、作品は解体され、鉄の芯柱のみを残して作業用の櫓が組まれている状態である。本来は、十五の菱形(算盤玉のような形態、鋳鉄製)と天地に続くふたつの半菱形かうなる大作であり、現代美術史家には「今世紀の彫刻史そのもののモニュメント」と目される作品である。
 なお彼のアトリエは、パリのポンピドゥ・センターに隣接する特別の建物内に復元保存されている。

L【LIFE[英]】属託ない人々の生活

 旅先で出会った人々の笑顔は忘れがたく胸にきざまれる。そこには穏やかな人間らしい生活があり、厳しい自然に立ち向かうための日々の営みがあった。
 家々の前にはベンチが置かれ、いつまでもよもやま話が続けられている。日曜日には、民族衣装を身に着けた人々が繰り出して賑わいもさらに華やかだ。もし農村を歩くなら、朝からツイカ(別項参照)をひっかけて、ひとなつっこく話しかけてくる農家のおばあちゃんにも出会うだろう。もちろん何を言っているのか少しもわからないが、誰も何も困らない。
 道の脇では、野菜や果物、魚(乗用車のトランクに入れて運んでくる)、さらにはドングリを売や八もいる(皮をむいて生のまま食べる。少し青臭いがそれほどまずくはない)。
 ところで、地方に出て感じるのは、身の回りにやたらと動物が増えることだろう。鶏、鴨、アビル、七面鳥、犬、羊、豚、馬、牛、水牛、熊(は、たいがい森の中だが)、数の多さもさることながら、すべて放し飼いというか、明確な柵もく(たとえあっても)自に出入りして生きているらしい姿がおもしろい。ブランコのあるような街の公園でも、牛がゆうゆうと草をはんでいたりする。彼らはそうして、夕暮れには、誰に追われるわけでもなく、ひとりで自分のねぐらに帰っていくのだそうである。

M【MAREA NEAGRA(黒海)】黒海沿岸でバカンスを楽しむ

 ルーマニアに唯一接している海が黒海である。黒海はルーマニア、ブルガリア、トルコ、グルジア、ロシア、ウクライナに囲まれた内海であり、その水上交通はヨーロッパとアジアを結ぶものとして、歴史的にも重要な役割を担ってきた。
 黒海の海岸一帯は、とくに夏季には晴天が続き乾燥して過ごしやすいため、リゾート地として栄えている。ルーマニアでは、ママイヤ、エフォーリエ・ノルド、マンガリアなどがその拠点。近郊にはヌーディスト・ビーチもあるらしい。
 ところで黒海名物とされているのが「泥治療」で、これは、黒海に隣接するテッキルギョル湖のミネラル分を多く含む真っ黒い泥ヲランクトンが堆積してできたものという)を塗って汗をかくというものだ。美容やリューマチなどにも効果があるとされている。
 最も簡便には、黒い泥を肌に擦り込んで日光浴をするだけだが、設備の整ったエステティック・サロンで優雅な「泥治療」を受けることも可能である。また泥だけを買ってくることもできるので、黒海沿岸でなくとも、随時自分で勝手に真っ黒になってしまうことも合法である。

N【NAI】民族楽器ナイの調べ

 揆弦楽器のコブザ、打弦楽器のツァンバル、チンポイと呼ばれるバグパイプの類など、ルーマニアの伝統的民族楽器は数多いが、そのなかで、現在でも最もポピュラーなのがNAI(ナイ)と呼ばれるいわゆるパン・フルートである。
 ナイは古代ギリシアを源流とするものともいわれ、ピッチの違う単音の笛を横一列に並べただけの楽器である(余談だが、これを大規模化し機械化するとパイプ・オルガンになる)。
 現在、ナイの名手としてはゲオルゲ・ザンフィルという人物がよく知られており、CDも何枚かリリースされている。
 楽器の形態からは、音のとぶ早い旋律や、なめらかなテヌート奏法には適さないように見受けられるのだが、演奏を聞くかぎり、そういった楽器の制約は感じない。これも熟練のなせる業であろう。
 思いのほか音量もあり、清涼な音色が心地よい。

O【OSCIETRE】ドナウで味わう珍味キャビア

 すでに紹介したドナウの大三角洲付近は、実はチョウザメの棲忌地であり、したがってルーマニアはキャビアの隠れた特産地ともなっている。
 この付近で捕れるチョウザメ(キャビア)は、ベルーガ、オセトラ、セブルーガの三種。それぞれチョウザメの大きさも違い、収極量にも差がある。
 しかし大粒で表皮が薄いベルーガがキャビアの王なら(貴重種でもある)、オセトラはキャビアの女王と呼ぶべきもので、粒自体はやや小さいが、木の実のような香り、しっとりとした舌触り、甘みを帯びた味覚など、その食味はむしろベルーガより評価が高い。またセブルーガはより黒く小粒だが、独特の味わいで親しまれている。
 今までは加工技術に問題があったらしく、ルーマニアのキャビアの評価は、ロシア産やイラン産のものに比べ低かったが、最近日本人の手によって適正な加工技術が開発され、そのすぐれた品質が評価されるようになり、通の間で評判をよんでいる。日本にも輸入され、高級フレンチ・レストランなどで供されるようになっている。
 残念ながら今のところ、ルーマニア国内の一流レストランでも、必ずしも前述のような品質のよいキャビアが供されるとは限らないようだ。

P【PALAT】独裁看の野望の跡

 ブカレストの名所のひとつに、国民の館(俗にチャウシェスク宮殿)がある。独裁者チャウシェスクが国家財政を傾けてまで建設した巨大な建造物で、公共施設などとしては、アメリカのペンタゴン(国防総省)に次ぐ規模という。
 天井高十八メートルの巨大なホール(総面積は二千二百平カメートル)をはじめ、大会議室、長さ150メートルの大回廊など、その部屋数は三千を超すといわれ、どの部屋も、大理石、金細工、木工細密工芸などで絢爛と飾られている。
 宮殿建設に使われた各種の大理石は、すべてルーマニア国内から調達されたため、現在ルーマニアでは大理石の輸出が制限されるほどに枯渇してしまった。
 この建物は現在は国際会議などに使用されているが、平時は一般の観光客を入れている。
 なお、チャウシェスクは1967年より、共産党第一書記に加えて国家評議会議長(国家元首)を兼任するようになり、74年の大統領制導入にともない初代大統領に就任し、その地位を固めた。当初は、独自の華やかな外交路線を展開するなど西欧にも好意的に迎えられ、国民にも人気があったが、70年代後半には経済政策の矛盾が表面化し、また党や政府の要職を縁者で固めるなど極端な独裁体制を進めた結果、八九年の市民革命により失脚、夫人とともに処刑された。

Q【QUALITY[英]】シックなガレ風ガラス工芸

 ルーマニアの工芸品の中で異彩を放っているのが、ガレなどアール・ヌーボーのガラスエ芸細工の復刻製作であろう。
 この工芸は、ブカレストの北東百キロほどにあるブゼウ市の地場産業となっているもので、その製法はガレやドームの頃の工芸技術を踏襲している。
 ガラスの成形は木型を用いて行われ、24時間かけてガラスを冷やし形が固まると、次に着色、絵付けの作業に入る。この過程は微妙な色合いを出すために四段階に分けて施されおリ、その後研磨作業などが続く。
取材した工場では三十名ほどの人が働いていた。
 製作されているものは、花器やランプが中心で、なかには高さーメートルほど私ある大型の壷などもある。いずれも渋い陰影に富んだ色合いや東洋的なモチーフが人気を呼んでいる。

R【ROMA】ローマ時代の貴重な遺物

 ルーマニアの国名は口1マ(ローマの言葉を話す人の意)に由来している。
 現在のルーマニア人の直接の先祖は、先住民ダキア人と征服者ローマ人との混血から生まれたとされるのが通説で、彼らは、周囲をスラヴ系民族に取り囲まれた中で、自分たちがラテン系民族であることを誇りとしている(もちろんだが、スラヴ民族側には別の立場がある)。
 歴史上、ローマと深く結びついていたことは、各地に見られるローマ時代の遺跡や発掘物などからもうかがい知ることができる。
 なかでも黒海沿岸のコンスタンツァの考古学博物館のコレクションは秀逸だ。写真の「グルコン像」、「ミトラス神のレリーフ」など、大理石彫刻の数々や、紀元一世紀頃のガラス器コレクションなどが目をひく。
 「グルコン像」は、1962年の春、コンスタンツァで発掘された二十四の彫像のひとつで、ローマ時代の善神で、家と家族の守り神と考えられている。紀元二世紀の作品。
 ちなみに、ダキア人による単一の政治組織は紀元前一世紀に生まれており、通常それがルーマニアの最初の国家と考えられているが、その最初の首長であるブレビスタが前四四年に死ぬとすぐさま、ローマの前進が始まっている。ローマ人はドナウ川を帝国の国境線にしようと望んだのだ。文書資料から、106年にはローマ帝国ダキア州が存在したことが知られている。

S【SARMALE】代表的料理のサルマーレ

 ルーマニアの代表的料理サルマーレは、ルーマニア風ロールキャベツと呼ぶべきもので、酢づけのキャベツに挽き肉、タマネギなどを包み込み、充分に煮込んで作られる。見た目よりはるかに手間のかかる(一日ではつくれない)料理で、特別な日に供される。
 各種のチョルバも有名。これは具だくさんの煮込みスープで、牛の胃袋を煮込んだスープ(チョルバ・デ・ブルタ)もよく食べられている。つけあわせのようにして出てくるアルデユテは、一見日本のシシトウに似ているがはるかに辛い。不用意にかじると涙が止まらず、耳が痛くなってくる……。
「茎の付け根のあたりに横縞が入っているのが辛い」と判別方法を教えてもらったが、あまりあてにならない(ルーマニア人はこの判別法を、より辛いものを探すために用いている)。辛すぎたとき、ビールなどを飲んではかえって痛みが増す。
痛む部分をパンで押さえつけるようにしつつ食べるといいと教えられたが、経験上ではポテト・フライを食べるのも即効力があるように思われた。
 ミティティは、豚や羊などの挽き肉を香草などとともに合わせてごろんとした楕円状の肉団子にしたもので、あぶり焼きにする。独特のぷりぷりした歯ごたえがあって美味しい。なお街角の屋台で売っているものもあるが、なかにはあやしけな肉を使っている場合もあるそうなので注意。
 ママリガは料理というよりはつけあわせ、あるいは場合によっては主食に近いもので、トウモロコシの粉に牛乳とバターを練り込んで煮たもの。ルーマニアの女性は、このママリガとサルマーレが作れて一人前とされる。
 主菜としては、豚、牛、牛レバー、羊、鳥などの肉類のソテーや煮込みがよく食べられている。チキンのソテーにはガーリック・ソースがつきもので、これは摺り下ろしたガーリックと塩をこね(時にはスパイス類も加えられる)水でのばしたもの。
 けっして飽食の国というわけではないが、思いがけずおいしいものに出会うのもルーマニアの楽しみであろう。日本にもルーマニア料理店(銀座/ダリエ)があるので試してみることができる。

T【TUICA】ツイカはプラムのプランディ

 ツィカはプラムで造られる蒸留酒で、市販品も売られているが、むしろ自家製のほうが質が高い。樽で寝かされたものは味の角もとれ、文句なくうまい。田舎に住むルーマニア人はもちろん、ブカレストに住む人でもツイカ造りに精を出している人は少なくない。
 なお、ツイカを蒸留する前のプラムの醸造酒もあるはずだが、それは飲用にはされていない。またツイ力(30度ぐらい)をさらに蒸留し純度をあげたものはパリンカ(40度ぐらい)と呼ばれている。
 ワインにも良質のものがある。ジドベイのものは白ワインで、高級発泡酒でも有名。ムファトラールでは赤も白も造られており、評価が高い。

U【市民革命残照(痕跡)】市民革命の残照

 1989年、革命の波は、地方都市ティミショアラでまず起きた。長くルーマニア国内では、少数派であるハンガリー人への差別的待遇をめぐって摩擦が絶えなかったが、国外で反政府的な発言をしたハンガリー人教会の牧師に対して教会からの退去命令が出されるに及んで、その膿が一気に吹き出たのだ。
 12月16日、前日から教会に詰めかけていた信徒たちは人間の鎖をつくって牧師を渡すまいと官憲に抵抗し、執行部隊の発砲によって犠牲者が出た。その後、抗議デモを行う市民と、戦車、装甲車を交えた治安部隊との銃撃戦は翌早朝から深夜に及んだ。
 21日には舞台はブカレストに移る。共産児本部の置かれた共和国広場(革命広場)で官が組織した支
持集会が開催され、チャウシェスク大統領夫妻が壇上に上がり、ティミショアラの事件を牽制する激しい演説を始めた矢先だった。その時、ひとりの発した「ティミショアラ万歳! 人殺しチャウシェスク打倒!」という一言の野次が大きく事態を変えたのである。それまで「チャウシェスク万歳!」を叫ばされていた群衆の声が「チャウシェスク打倒!」のシュプレビコールに変わっていた。
 二十二日にはルーマニア全土に厳戒令が布かれたが、革命の波は衰えなかった。マゼール大通りから共和国広場へなだれ込もうとする市民のデモ隊は、軍や治安警察に阻まれていたが、ついに軍は銃をおろして退却し、市民の勝利は明らかとなった(実はすでに、国防相ミレアは、ブカレスト市民への発砲を拒否したため銃殺されていたのだ)。共和国広場に殺到した群衆は、共産党本部を掌握し、チャウシェスク夫妻はヘリコプターで脱出を図る。
 だがその後も治安警察の抵抗は続き、この間に多くの犠牲者を出す。しかし23日、大統領逮捕の報が流れると、その抵抗も下火となり、25日クリスマスに大統領夫妻に対する裁判と性急な処刑が行われ一応の決着を見るに至ったのである。
 現在も革命広場には、銃撃戦のなまなましい跡が残されている。

V【VESEL(陽気な)】サプンツァ村の隔気な墓

 ルーマニア北部、ウクライナの国境に近いサプンツァ村には、世界的に知られた奇妙な墓地がある。「陽気な墓」と呼ばれるその墓所に建つ墓標には、故人の生前の職業や事件、残された家族へのメッセージなどが、イラスト入りでレリーフ彫刻されているのだ。
 スタン・イオン・パトラッシュという人物が1935年に始めたもので、彼自身の墓も建っている(つくったのは別の人)。
 たとえば、墓のひとつにはこんな物語が書かれている。「私はゆっくり眠りにつくことができません。名前はサウリック・イオンと言います。私はベルベゼオという村で羊飼いをしていました。その時、悪いハンガリー人が来て、私の頭をライフルで撃ち、そのあと頭をちょんぎりました。私はそんな状態で墓に埋められました。永遠に私はあなたを恨みます」。なにやら禍々しい話だが、没年は一九四一年とあるから、第二次世界大戦の戦時下の話であろう。
またほかの墓にはこう書かれている。「私はもっとたくさん生きて、お話したいことがたくさんあります。私は私の人生に不満を感じています。私の命は雪が溶けるようになくなってしまいました。私は子供のまま天国に連れて行かれました。神様にお願いします。すぐに死んでしまった私の分も、ほかの子供たちに、どうか喜びや楽しみを、そして小さなボールやおもちゃをたくさんあげてほしいのです』・・・
 墓の創始者スタンの家は記念館になっていて、彼の子孫が、今でも新しい墓標を作りつづけている。
 取材の当日は、ドイツ人とおぼしき団体がバスを仕立てて訪れていた。こんな村興しの力法もあるのだ。

W【WOOD[英]】木彫りの門は富の象徴

 バイアマーレ地区の村々がフォークロアの宝庫であることはすでに述べた。建造物として特徴的なものに、木の彫刻で釣られた豪農たちの家の門がある。いかに大きくおおけさな(あるいは優雅な)門を遣るかということは、その家の格式や財力を誇示するものであり、おそらくは魔除けの意味も込められているに違いない。現在でも新しく造り直している家もある。
 一軒一軒の意匠も違うが、様式として見ると村ごとにまとまりがあり、比較するとおもしろい。周辺には、木造の教会も数多く、ルーマニアの豊かな森が育んだ文化が息づいている様子がうかがえる。
 つい写真に撮り損ねたが、このあたりで見かけたもうひごつ不思議な風習がある。木に無数のバケツ(ブリキのやら、プラスティックのやら色とりどり)を下げた家があちこちにあるのだ。聞くと未亡人だった人が再婚するしるト処のだという。祝いの意味なのか、はやし立てるような意図があるのか、あるいは何かのマジナイなのか、このバケツは今回の取材中屋大の謎となったのだった。

X【X (CRUCE)】十字架とペチエターレ

 ルーマニアの風土の中に溶け込んで、スパイスのような役割を果たしているものに、さまさまなバリエーションの十字架がある。
 特徴ある十字架というと、カタコンベなどでも見られるやケルト十字や花弁のような形をしたマルタ十字、ロシアの正教などの東方十字(横木が三本あり、うち一本が斜めになったもの)などが思い浮かぶ。
 ルーマニアのキリスト教も、おもに正教に属しているが、各地で見られる十字架には、しかしそのような一定の規範があるわけではない。そこにはむしろ、無限増殖する生命のイメージが宿っているように思えてならない。道の脇にはつねんと建つ石の十字架には、道祖神のような趣もある。
 さて、十字架と並んで興味を引いたは、マラムレシュ地力でペチェターレと呼ばれる、パンに押す一種の印章だった。印の部分には、「IX・XC」(ギリシア語でイエス・キリストを示す最初と最後の文字)の文字が見て取れる。これは、教会に納める聖体拝領に使うパンのための印章であって、パンの生地に押し、焼き上げるものなのだ。
 シゲット・マルマツィエィのマラムレシュ博物館には、そのすぐれたコレクションがある。これはポプ・ヴィクトルという人物が収集したものである。このコレクションに付された説明(パンフレット)によると、こうした印章は、この地域だけのものではなく、ヨーロッパ、東・北アフリカのキリスト教徒たちによっても使用されていたもので、フランスの博物館や教会には、十三~十四世紀の聖体拝領のパンのための印章が保存されているという。ルーマニアで最も古い印章はクルジティミスの遺跡から発掘されたもので、四世紀のものとされている。マラムレシュで発見された陶磁器による印章は一七二九年のものだった。19世紀のはじめには、これらはマラムレシュの多くの家庭で見ることができた。
 通常、印章は堅い木材で作られ、たまに、石、陶磁器、金属でできたものもある。大きさは10~15センチ程度。シンプルな十字架形から「生命の木」を表すものまで、さまさまな十字架の意匠が印象深い。トルソのような形に作られ擬人化されたものや、キリストの十字架像を象ったものもある……。
 写真右下の不思議な十字架は、ある人の説明によるとチーズを挾み込んで模様をつけるものだと言う。蓋になる部分の裏側にも微細な彫刻が施されている。

Y【YES / NO[英]】ルーマニア語の はい・いいえ

  ルーマニア語はインド・ ヨーロッパ語族中、イタリ ック語派、ロマンス語に属する言語である。ラテン語にルーツをもちながらも、現代ギリシア語やアル八二ア語などバルカン半島の言語とも深いつながりがあり、スラヴ語の影響も受けている。しかし聞いた感じではたしかにラテン・ルーツを感じさせる響きがあり、イクリア語に近い感じがする。ただし、YESはDA(ダー)、NO はNU(ヌー)と発音する(ご承知のとおり、ロシア語でもYESはDA、NOはNET)。
 イタリア語のような雰囲気でルーマニア語を話している彼らが、突然「ダー、ダー、ダー」(そうだ、そうだ、そのとおり)といって相づちをうったりすると、なんだか妙な感じがするものである。
 ちなみに、ルーマニアでは歴史的に一時期キリル文字が使われたが、現在はローマ字を用いている(若干の補助記号を使用する)。QWYは外国の地名、人名以外には用いられず、ルーマニアのアルファベットからは省かれる場合も多い。また、Kも外来語以外には使用されない。

Z【ZONA(地域)】近代ルーマニアの誕生と独立

 ルーマニアの歴史は、紀元前八世紀頃よりカルパチア山脈地域とバルカン半島北部に定着したダキア人にはじまるとされる。ダキア人はインド・ヨーロッパ語族に属する一派で、ブルガリアの先住民であるトラキア人とも血縁的に関係がある民族だった。一世紀以降、ローマの支配下で混血が進み、現在のルーマニア人の祖先が形づくられたと考えられている。
 そして、近代的な意味でルーマニアの領土や国家の原形が形成されたのは、一八六二年のモルダヴィアとワラキアの統合にある。いずれも十四世紀以降生まれた公国であり、長いオスマン・トルコの支配、そしてロシアの支配を経ての結果だった。当時雨地域を支配していたロシアがクリミア戦争に敗北し、その後の一八六一年のパリ講和会議でふたつの地域(ゾー古はトルコ宗主権下の自治公国ルーマニアとして統一されたのである。写真は、その折作られた紋章であり、モルダヴィァ(右)とワラキァ(左)の紋章を合体して作られている。
 この後ルーマニアは、対トルコ戦争にロシァ同盟国として参加し、その功績を認められ、ベルリン会議で独立を勝ち取っている。

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