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ユーラシアの世界遺産の壁画をみる

岩波書店 2003年8月「フレスコ画への招待」より

ルーマニアの不思議なフレスコ

 1995年夏、イタリア留学中であった私は、ボローニャ近郊のドッツァという小さな町の壁画制作イベント(ムーロ・ディ・ピント)に参加しました。 参加者はイタリア人、アメリカ人、ルーマニア人、リトアニア人、そして日本人の私の計5人でしたぃ画家であり、ルーマニア・アカデミアの教授で、 修復師でもあるニコラエ・サヴァ氏は、自国からスサの入ったマルタを持参していました。彼はイタリアでもフレスコを学んだ専門家ですが、この 人との出会いが、それ以降の私のフレスコ観を大きく変化させることになりました。 ドッツァでの制作を終えてフィレンツェに戻った私は、その年の秋、ニコラエ教授を訪ねてルーマニアの首都ブカレストを訪れることになりました。 フィレンツェからブカレストまでは飛行機でわずか1時間と少しです。

ルーマニアという国

 ルーマニアという国の名前には「ローマ人が創った国」という意味があります。  民族的にはイタリアと同じラテン系で、歌や踊りの大好きな明るい気質を持っていまずい地坪的には東ヨーロッパに位置しますが、東からは アジア、東北からはワンア、何か心はギリシアと、黒海を挟んでトルコと、様々な文化が流入し交錯する大変興味深い国です。
 国の中央に、ドラキユラが住むといわれるトランシルヴァニア、カルパチア両山脈が連なっています。 この山脈の東北部、モルドバ地方に不 思議な壁画のある教会群があります。

スチャバヘの道

  私がブカレストの空港に降り立ったのは2月中旬で、ルーマニアはすでにかなり寒く、厚手のコートなしには外出できない気候でした。 その晩はニコラエ教授のお宅で夕食をごちそうになって、翌日、教授とその学生たちとともにルーマニア東北部へと向かいました。
 列車は、首都ブカレストから北に向かって広大な平野を6時問走り続け、バカウをぬけるころから風景は白一色になりました。 ウクライナとの国境近くにスチャバという町があります。ブカレストを昼の12時に出発した列車は、日がとっぷりと暮れてから、この町に着きました。

フモール修道院

 翌朝、ニコラエ教授の案内で私たちは用意された二日の車に乗り込み、国境沿いの山脈へと向かいました。 車は白い雪道をゆっくりと登り、 標高はだんだんと高くなって、車は坂の中腹、フモール修道院の前で停まりました。車を降りると、そこには日本の寺の山門のような門があり、 それをくぐると、一面の雪の向こうに、庇の長い丸屋根に覆われたギリシア正教の修道院が現れました(図40)。息を呑むような一瞬でした。 修道院の周囲の壁が、すべてフレスコで覆われているではありませんか。一見マンダラにも似て見えるビザンチン様式のフレスコでした。 ブルーの地に茶色や赤や黄色の装飾的な壁画を前に、私は茫然と立っていました。
 この壁画は16世紀、およそ450年前に描かれたものです。しかし、いまだにその美しさを失っていません。ルーマニアの冬の平均気温は マイナス7度、夏の平均気温は30度になります。長い冬の間、修道院の北側の壁面はほとんど雪で覆われてしまいます。 積もった雪は水分となって壁に染み込み、それが凍ることによって体積を増したことでしょう。夏の熱さと冬の凍結とを450回繰り返してきたのです。 北側は痛みが激しいものの、南側は色彩も形も鮮明で、450年の歳月を感じさせません(図41、43)。しかも背景(バック)に使われている青は、 北面でも全く剥落することなく、鮮やかな発色を見せていました。

不思議なブルー

  ここでバックに使われた青(アズライト)は他の色が剥落しても、一番最後まで残っていました。アズライトはイタリアでもフレスコに使われますが、 水とアルカリによって変色するので、この色を使う場合には壁面が乾燥してから、ア・セッコとしてバインダーを混入して接着されます。 ですからアズライトは、バインダーの劣化のために一番先に剥落してしまう色でもあるのです。

 では、なぜルーマニアのこの青は剥落せずに450年も鮮やかに残っているのでしょうか。その秘密は、ルーマニアの特殊なバインダーにありました。 カゼイナート・ディ・力ルチエといって、ルーマニアにある、ゆるい豆腐のようなチーズの一種と、グラセッロとを混ぜて作るものです。 この二つを混ぜると白濁した液体になります。ニコラエ教授によれば、フモール修道院では壁面にグレーまたは茶褐色でデッサンした後、 アズライトにカゼイナート・ディ・カルチエを混ぜて使用したそうです。この方法がルーマニアの激しい季節の変化にともなう450回もの収縮と膨張に 耐える「青」を生んだのです。壁画の下の方は湿気が強いために、この青はマラカイト(緑色)に変化していました。  私はイタリアで、これと同じチーズを探しましたが、見つけることはできませんでした。

モルドバの大遺産

 フモール修道院の外壁には、1530年代の建築当初、単純な大きな煉瓦紋様が描かれていましたが、建設から約10年後に、現在あるような フレスコが描かれたということで す。このように外壁にフレスコが描かれた修道院は、このほかに、付近に四つありました。 どれもほぼ同時代のものですが、いずれもその美しさを今に残しています(図44、45)。モルドバ公国のシユテファン三世大公(在位1457~1504年) とその後継者ペトルラレシユ公は、オスマントルコ軍と戦って国の自治権を守り、モルドバ公国の最盛期を作りました。大公は戦いに勝利するたびに、 新しく修道院を建設したり、すでにある修道院の外壁をフレスコで飾ったりして神に捧げたということです。

 初冬の晴れた一日、白い雪と真っ青な空を背景に修道院外壁のフレスコはいちだんと輝いて見えました。フレスコの前に立ったニコラエ教授の説明は、 徐々に熱気を帯びて、どんどんスピードを増していきました。昼になって、私たちはこのフモール修道院の一皇で、黒い衣とかぶり物をした優しげな 修道女長とともに菜食の昼食をとりました。
 北モルドバ地方には、外壁をフレスコで飾ったて‘の修道院があり、そのう仏の7つが世界遺産に登録されています。よく知られるのはフモール、 ヴォロネッツ、アルボレ、モルドヴィツァ、スチェヴィツァ修道院の五つです。

 イタリアでは、雨風に当たる外壁にブオン・フレスコを作ることはほとんどありません。このルーマニアの修道院の外壁に施されたような強固なフレ スコの技術が発達したことは大変興味深いことです。

 ニコラエ教授によれば、国を東西に分断するカルパチア、トランシルヴァニア両山脈を境に、西側はイタリア、ヨーロッパと同じく石灰と砂を入れて 下地を作るのに対して、山脈を越えた東側は石灰に植物や動物の繊維を入れて下地を作る、その方法は東洋からシルクロードを伝わってきたの だということでした。

  さらに教授は、次のような話をしてくれました。カルパチア、トランシルヴァニア両山脈が国の中央に壁のように立ちはだかり、ヨーロッパからの文化 はこの山脈を越えることができなかった。また東洋からの文化もこの山脈を越えることができず、インドを発端とする東洋の文化はここに留まった。 この100年くらいの間に、山脈を越えたトランシルヴァニア地方に、山脈の東側のビザンチンの方法が待ち込まれ、教会に絵が描かれたが、植物 繊維を入れた際、その種子まで混ぜて入れてしまったため、壁に小さな穴がたくさん空いて、その周りに浸食が起こってしまい、その絵は失敗に終 わったということです。

 私はフモール修道院の壁の強さと色の定着の堅牢さに、強い興味を持ちました。砂を入れずに繊維を入れる石灰の壁は、日本の漆喰の壁作り と同じです。長い庇を持つ建物、寺の山門にも似た入り口、それらに東洋のはずれの日本との繋がりを感じないではいられませんでした。

 ルーマニアは東ヨーロッパに位置しますが、このとき私の中ではアジアの西のはずれに位置することになったのです。

ビザンチンの画法

 モルドバの教会会葬にあるフレスコは、ルーマニアのビザンチンの方法で描かれています。イタリアのフレスコの方法とは次のような違いがありました。 まず上塗りのマルタはグラセツロに麻の繊維だけを混入し、砂は入れません。

スサ(ツタ)入りのマルタ

 グラセッロに、スサ等の繊維を混ぜようとすると、スサがー塊りになって、なかなか分散してくれません。

 そのためペースト状の石灰を舟に平らに広げて、その上から細かく切った麻の繊維を満遍なく散らし入れ、端から石灰とスサを一緒に切るようにして、 少しずつ混ぜ合わせていきます(図47)。この作業を何度か繰り返して全体に麻の量が十分になったら、マルタとして使います。
 石や煉瓦作りの壁にこれを鏝で塗りつけて、ブオン・フレスコと同じように壁が濡れているうちに絵を描きます。 スサを混ぜたグラセッロはたいへん水持ちがよく、 たとえ乾いたように見えても、上から鏝で押さえると再び水を持ち上げ、顔料を定着させる力を取り戻すのです。だから壁面に広くマルタを塗っておいて、 画家はその日描くところ描くところを鏝で抑えて、水分を表面に持ち上げてから絵を描いていきます。

スサ(ツタ)描画

 絵の描き方にも順序があります。絵の具は土性系の顔料を中心に、描画に必要な色を用意します。聖人の肌の色は特に重要で、はじめに、 肌の部分全体に塗る一番濃い色と、それに石灰を混ぜた一番明るい肌の色を別々に作り、その二つを混ぜて中間の色を作っておきます。 その他のバックの色や衣などの色も、一色につき、濃い色、明るい色、そして中間の色と三段階作ります。

 色を使う順番は暗い方から明るい方へ移行させます。まず顔や手全体にアウトラインに添って一番濃い色を塗り、次にその内側に中間の色、 さらに内側に明るい色を塗って、最後に一番明るい白をハイライトとして使います。遠い、暗いところから描き始め、徐々に明るい色で描いて、 形をどんどん手前に引き出してくるという方法です。この方法は暗い教会堂の中で、ろうそくの淡い光の中でも存在感が感じられるようにと 工夫されたものだそうです。マエストロが儀軌に則って、黄土色で絵の区割と配置を決め、聖人を象り、その顔や手を描きます。 その後弟子たちは、聖人の衣の紋様や手に持つ本等の装飾等を描き、最後にその聖人の名前を書き入れます。

 こうした三段階の明るさの色を作る方法は、ニコラエ教授が修復を通して見つけ出した古いビザンチンの方法です。 現代の画家は、もうこのような描き方はしませんが、暗い色から明るい色へと描きあげていく方法は、 イタリアのジョット時代の方法を書きとめた『絵画術の書』にも記載されています。

スサ(ツタ)厳しい儀軌

 ギリシア正教では、教会に聖人たちを描くのに厳格な儀軌があり、各聖人を描く場所とその姿と持ち物等にも決まりがあります。 画家はその儀軌を勝手に崩すわけにはいきません。この宗教は変化しないことを大切にしています。 ここがキリスト教と大きく異なるところです。キリスト教の絵画を見ると、そのスタイルの変化によって、時代や、ルネサンス以降であれば 制作者まで特定することができますが、ギリシア正教の描き方は一貫して変わることかありません。画家は小さく描く星や衣の紋様の 表現によって、自らのサインの代りとするのです。

スサ(ツタ)フモール修道院の修復

 この教会は1980年代にユネスコの協力の下にニコラエ・サヴァ氏本人によって3年間にわたって修復がなされました。

 クラック(ひび割れ)から壁面内部に水分が浸入し、それが壁画表面の傷みを招くので、細かなクラックに石灰をつめ、 剥落を起こしている顔料層の下に接着剤を注入します。

 顔料層の上には薄いプラスティック剤を塗り、剥げかけた顔料を押えていく細かな仕事です、新しく石灰がつけられた部分には 弱い水彩絵の具が斜線で施され、いつでも洗い流せるように考えられ、復元された部分は,それとわかるような、ある範囲に限ってなされていました。 氏の修復は現状維持と伝承に徹しています。

 修復の資金はユネスコから出ていますが十分とはいえず、できるところまで仕上げて、次の予算ができたときにまた戻ってくるそうですが、 それが何年後のことなのかはわからないのです。

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