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ヨーロッパに秘められたラテン文化の薫り
東西の交差点・ルーマニア

国際グラフ 2011年夏号

Bucharest ― ブカレスト

中世の面影をそのままに、発展を続けるブカレスト 緑と建物が見事に調和した様は、まさに「東欧のパリ」。

 「ローマ人の国」を意味するルーマニア。東西貿易の交差点に位置することから、オスマン帝国あるいはハプスブルク帝国の影響下に置かれ長らく独自の民族国家が樹立できなかったこと、また、冷戦時代の大統領ニコラエ・チャウシェスクによる独裁体制、一九八九年に起こったルーマニア革命など、まさに波乱に満ちた歴史を歩んできた。しかしラテン系の民族が形成した国とあって、陽気な国民性と明るい未来ヘの希望を持ち続けたことが、これら困難を乗り切ったと言えよう。
   ドナウ川とカルパチア山脈に囲まれたルーマニアの首都ブカレストは、デゥンボヴィツァ川岸の小高い丘に住む羊飼い「Bucur」から名付けられたと言われ、後にヴラド三世の署名により公式に呼ばれるようになった。このヴラド・ツェペシュこそ「串刺し公」と呼ばれ、かのドラキュラのモデルとなった人物である。今日では紆余曲折を経た時代の流れを、強固なレンガアーチの建物や中世の戦争を戦い抜いた王宮跡などで見ることができ、この地を訪れる者は中世ヨーロッパの面影を否応なく感じることだろう。
   緑と建物が見事に調和し、二十世紀初頭には「東欧のパリ」と呼ばれるほどの美しい街並を誇る都市に変貌を遂げたブカレスト。ルーマニアの文学界で最も重要な作家のうちの一人、マテイゥ・カラジアレが「ブカレストは東からの玄関口で、繁栄をもたらす」と言ったが、まさにその言葉通りである。
   床面積がペンタゴンに次ぐ世界2位の大きさを誇る「国民の館」は、1989年までルーマニアを支配していた独裁者チャウシェスクが巨額の税金を投じて造らせたもので、このため国民は困窮を強いられた。 「国民の館」という名前はチャウシェスクに対する皮肉以外の何ものでもない。一方、ルーマニア独立を記念して建立された「凱旋門」。その後、第一次世界大戦後に再建されたがいずれも木造で、石造になったのは1935年のことである。

 ブカレストのシンボル「アテネ音楽堂」 ― ため息をこぼすほどの豪華絢爛な内装は必見
   ブカレストのランドマーク「アテネ音楽堂」は、一ハ八六年にフランスの建築家アルベール・ガルロンの設計により建築がスタートし、1888年2月14日に落成した。現在はジョルジュ・エネスコ・フィルハーモニーの本拠地でもあり、定期的に公演している。 オーケストラホールとしては小さめだが、ギリシャ神殿を思わせる外観もさることながら、贅を尽くした内部がとにかく素晴らしい。ユニークな円形の回廊状の構造、内部を取り囲むルーマニアの歴史絵巻のフレスコ画、そして数々の楽聖達の文字が描かれた天井装飾などは博物館さながらの停まい。ちなみに建物はかなり燃えやすい材質でできており、一九八九年のルーマニア革命の際には一発でも砲弾が当たれば燃え落ちると言われた。しかし銃撃戦の主たる舞台が音楽堂の目の前の宮殿広場であったにもかかわらず、図書館やアテネパレスホテル、宮殿の一部などは焼け落ちた中、奇跡的に一発の銃弾も浴びずに生き残ったという。

ブラン城 (Bran Castle)― 威風堂々に魅了する、ドラキュラ伝説の舞台

 「プラン城」はルーマニア南部のトランシルヴァニア地方、ブラショフ県南部の山中に位置する古城。現在は城の四階層にわたり博物館となっており、陶器や家具、武器などのコレクションの他、敷地内にはルカール=プラン地方の伝統的な農村の建物も展示されている。アイルランドの作家プラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』に登場するドラキュラ城のモデルとされているが、ドラキュラ公ヴラド三世(ヴラ ド・ツェペシュ)はこの城に全く住んで いなかったと考えられている。
    ヴラド三世は十五世紀ルーマニアの ワラキア公で、最初に彼を「串刺し公」 と呼んだのはオスマン帝国の兵士である。日本語で串刺し公を意味する「ツェ ペシュ」を原音のまま用いているが、存 命時はむしろ「ドラキュラ」というニックネームを好んで用いたと言われ、「ヴラド・ドラキュラ」と書かれた本入筆と思われるサインも存在する。そもそも串刺し刑は当時のキリスト・イスラム救国のいずれにおいても珍しいものではなかったが、君主の権威の絶対性を表そうと侵略者のみならず反逆者はたとえ貴族であっても串刺し刑に処したところに彼の異常性が感じられる。しかし現在ではルーマニア独立のために戦った英雄として再評価されている。

ブラショフ市 / 黒の教会 (Brasov・Biserica Neagra)

 まるで絵本の世界に迷い込んだかのよう…

 トランシルヴァニア地方の中心都市・ブラショフは、中世の面影を残し、絵本の中に出てくるような古き良きヨーロッパを堪能できる街並が魅力。主な観光スポットとして「黒の教会」「要塞教会群」、そしてドラキュラの舞台となった「プラン城」などがある。 
   “ビセリカ・ネアグラ”という現地名の「黒の教会」。 ネーミングはもとより、ゴシック様式の重厚な外観などからは何ともいわくありげだが、別に異教徒とか悪魔崇拝の教会ではない。 1385年頃に破壊された以前の教会に代わり1477年に建築されたもので、1689年のオスマン帝国との戦いでハプスブルク帝国軍が侵略してきた際の大火の煙で黒くなったことから、その名が付けられた。

ヤシ市(Iasi)― 幾多の著名な作家や文学者を輩出する「文化と教養の街」

 ルーマニアの歴史を語る上でヤシは欠かせない
   ルーマニアは首都ブカレストを除いて四つの地方・四十一の県で行政区分されており、その中には重要な都市が数多くある。それは数世紀にわたって「ツァーラ・ロムネアスカ」「モルドヴァ」「トランシルヴァニア」の三つの地域に分割され、それぞれ首都的な役割を担っていた街が存在したからだ。
   モルドヴァ地方において文化・経済・政治の中心的都市とも言えるヤシは、ルーマニアで初めて大学が設立された「文化と教養の街」として有名で、多くの著名なルーマニアの作家や文学者を輩出している。また、ルーマニアの中でも古参の街で、歴史を知る上での情報が豊富にあることから「博物館の街」としても知られている。とりわけ荘厳な佇まいに圧倒される「文化宮殿」や「国立劇場」、「聖ニコラエ教会」などは押さえておきたいスポットで、ヤシのシンボルになっている「エミネスクの菩提樹」も忘れてはならない。ちなみに近郊には「コトナリ」をはじめとする多くのワイナリーがある。
   ヤシには十八世紀以後、ウクライナから多数のユダヤ教徒が移住したが、イディッシュ文化の功績として特筆すべきは、アブラム・ゴルトファーデンが一八七六年にヨーロッパ初の常設イディッシュ劇場を設置し、文化に新たな風を吹き込んだことだろう。ちなみにゴルトファーデンー座は、ワルシャワやオデッサ、モスクワなどへも巡業し、成功を収めた。このようなエピソードも東西の交差点と言われる所以だ数々の侵略から立ち直り、新たな境地を拓いた「モルドヴァ性」1538年にオスマン帝国のスルタン・スレイマン1世の軍勢によって灰嘘に帰して以降、オスマン軍、クリミア・ハン国軍、ポーランド軍などに次々と侵入され壊滅的な被害を蒙り続けたヤシ。本格的な整備が始まったのは1827年の大火の後で、また、18世紀後半からは東方問題の舞台となり、1792年には露土戦争の講和条約(ヤシ条約)が締結されたが、その後もロシア軍やオーストリア軍に占領されるなど、暗い影を落としている。
   上記のような政治的悪条件にもかかわらず、文化は独自の性格を強めていく。いわゆる「モルドヴァ性」は16世紀後半にペトル公が建立したガラタ修道院や、1639年にバシレ・ルプ公が建立した、「教会建築におけるモルドヴァ様式の傑作」と言われる様々な飾りを施した石造りの「トレイ・イェラルヒ教会」などによく表れている。ちなみにバシレ・ルプ公は1640年頃にスラブ語とギリシア語による学校を創設した他、モルドヴァ最初の印刷所も設立した。

ヴォロネツ修道院(Voronet Monastery)
壁一面のフレスコ画は先人達による現代へのメッセージ
今なお神秘に包まれた「ヴォロネツの青」の世界

モルドヴァ地方は教会や修道院の宝庫として知られ、何百年も前に建てられたものが数多く残っている。この地方で最初に修道院を建てたのは、モルドヴァ公国の公主ムシャテシン一族で、中でもシュテファン大公は「オスマントルコ帝国からキリスト教のヨーロッパを守る壁」として1457年から1504年までの永きにわたってオスマン帝国、ハンガリー帝国、ポーランド帝国などと何度も戦ったことがあり、勝利のたびに感謝の気持ちを込めて教会や修道院を建立したと言われている。また、その後継者であるペトロ・ラレシュ公もシュテファン大公に倣い修道院を修道院を建て続けた。ちなみに「ヴォロネツ修道院」、「アルボレ修道院」、「フモール修道院」、「モルドヴィツァ修道院」、「プロボタ修道院」などがユネスコの世界文化遺産に登録されている。モルドヴァ地方の修道院には青、赤、黄、緑などの色を使ったカラフルな壁画が描かれており、それらは世界史を語っている神聖なフレスコ画がほとんど。「ヴォロネツ修道院」はシュテファン大公によって1488年に建てられたもので、「東洋のシスティナ礼拝堂」と呼ばれている。四面には壁面いっぱいに「最後の審判」の場面が描かれているが、これは「ヴォロネツの青」として世界的に有名な青色を背景に1534年から1536年の間に描かれたもの。今なおどのようにしてつくられたのかはっきりしない不思議な青色―先人達の知恵に感服するしかない。

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