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ヨーロッパの小さな町へ 2005年 6月
マラムレシュ地方:田舎の中に佇む木造りの教会と愉快な墓
「森のかなた」を意味するトランシルバニアという地名は、なぜか郷愁を誘う言葉だ。そのトランシルバニアの、さらに北に広がるマラムレシユ地方。ここにはルーマニアだけではなく、ヨーロッパの原風景と言うべき景色が広がっている。
緑豊かなこの地方には、独特の風貌をした木造の教会が点在している。カシやナラなどを利用した建物は、釘を使わない組み込み式技術を駆使して建てられた。傾斜の急な屋根はどれも板ぶきで、ユニークな姿をしていて印象深い。
世界遺産に登録されているのは、8つの村にある教会である。中でも、18世紀初頭に建設されたジユルデシティの教会は、最も古いものとして有名だ。高い尖塔に目を引かれる。ブルサナの教会の屋根は、女性のスカートを思わせるような、ゆったりとした円錐形をしている。そのほか、イエウドゥ、プロビン、ロゴス、ブデシティ、デセシティ、ポイエニレイゼイの各村に木遣りの教会が建っている。ほとんどが18世紀の建物だが、それぞれ似ている中にも特徴があっておもしろい。内部はたくさんのイコンなどで飾られている。木のぬくもりにあふれる素朴な建物にも、厳粛な空気が感じられることだろう。
ウクライナの国境に近いサプンツァ村も、ぜひ訪ねたいルーマニアの観光名所だ。ここの名物は「陽気なお墓」。それぞれのお墓に、故人を偲ぶ絵が描かれている。1935年に、絵描きのズタン・パトラッシュという人物が、十字架に絵を描き始めたのがことの始まりだという。
「陽気な」という言葉が添えられた意味は、現地を訪ねたら一目瞭然だ。不謹慎とは思いつつも、ついつい笑顔になってしまう。自動車、女性を挟んで向かい合う二人の男性、飲み屋などなど、故人の職業が分かるものから、何やら意味深なものまで、絵柄はさまざま。いったいどういう人生を歩んだ人なのか。いろいろ想像しながら、墓地を歩いてみるのはここならではの楽しみだ。そして、誰もがこう考えるに違いない。「自分のお墓には、どんな絵を描いてもらおうか?」と。
シギショァラ市:ドラキュラ伯爵ゆかりの街
シギショアラは、12世紀にドイツのザクセンからの入植者たちによって築かれた。スラブ、ラテン、ゲルマンの文化が行き交う街は、中世から各国の人々の商業活動の拠点となり、14世紀には商エギルドによる自治が認められた。それを記念して建てられたのが、現在も街のシンボルとなっているおよそ60メートルの時計塔である。最盛期を迎えていた15、16世紀には、ギルドの数は10以上あったという。
シギショアラの歴史地区は、丘の上にあることもあって、城壁に囲まれている。その中に、中世そのままの家並みと石畳の道が残っていて、訪れる者を遠い昔へと誘ってくれる。
静かな佇まいの中にも、融合した異文化の香りが漂っているが、文化の境界ということは戦略上の要衝ということでもある。この地の歴史、さらにルーマニアの歴史は決して平坦なものではなかった。
それを象徴する人物が、シギショアラで誕生している。ヴラド3世こと、ワラキア公ヴラド・ツエペシュ。通称ドラキュラ公だ。ツエペシュが生まれたのは、1431年頃といわれている。生家は時計塔の横にあり、現在はレストランになっている。ここは父親のヴラド・ドラクルが、ハンガリー王によって幽閉されていた家でもあった。なお、父は神聖ローマ帝国から授かったメダルに竜(ドラゴン)が彫られていたことからドラクルと名乗り、これがドラキュラ公の由来となった。
アイルランドの作家プラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』のイメージが強いドラキュラ公。ツエペシュという名も「串刺し公」の意昧であり、猟奇的な印象が漂っているが、ツェペシュは決してそのような人物だったというわけではない。確かに、当時勢力を伸ばしていたオスマン帝国の兵士を串刺しにしたツェペシュだが、オスマンから祖国を守るために必死だったともいえるのだ。
実際、彼は何度もオスマンを撃退した勇者だった。
なお、ドラキュラの居城のモデルとなったのが、ルーマニア第2の都市ブラショフ近郊のプラン城であることはよく知られている。シギショアラからも列車で2時間半ほどの距離にあるので、ぜひ足を延ばしたい。独特の雰囲気が漂うプラン城は、実に印象的だ。
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