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カルパチア山脈を越えて

地球の歩き方 ― MOOK ヨーロッパ列車の旅

ハンガリーからルーマニアへ

 ハンガリーを夜に出発した列車は、ブカレスト・ノルド駅ヘ向けて出発。ルーマニアは、スラヴ系の民族の多い中欧のなかで唯一のラテンの国。車内もラテンのノリであふれている。

 一気にルーマニアの首都、ブ力レストヘと向かう。今回の旅で最初の夜行列車だ。デブレツェンからソルノクヘ移動し、ブダペストを18時10分に出発した国際列車ユーロナイト371にソルノクから乗り込む。I等寝台車に入ると、早速車掌が乗車券をチェック。しかし車掌は乗車券だけ受け取り、パスポートは預かってくれない。これはつまり、夜間の国境審査のためにたたき起こされることを意味する。

 車両はルーマニア製のもの。I等寝台は2段ベッドになっており、部屋には流し台も付いている。

 シャワー、トイレは車両の端に完備されており、なかなか快適だ。ルーマニアは中欧諸国のなかでも特に鉄道の充実に力を注いでいると間いていたが、この列車を見るだけでもその意気込みが伝わってくる。

 荷物を自分の部屋に置き、夕食をとるために隣にある食堂車へ移動する。内装は各テーブルにクロスがかかり、その上に小さな花瓶が置かれている程度で、寝台車に比べると非常に地味な印象だ。とにかく料理を注文し、ワインを頼んで食事をはじめた。ところが、食事の途中であるにもかかわらず、国境が近づいてきたとの理由で自分の部屋に戻らされるはめになった。料理はそのまま残しておくので、国境を越えたらまた戻ってくるように言われた。

 夜行列車の国境審査というものは結構緊張するもの。しかし日本人であることを告げるとすぐにスタンプを押してくれ、あっけないほど簡単に通過できた。

 食堂車に戻ってくると、乗務員がみな食堂車に集まり、ワインを片手に談笑中。勤務中に飲酒とはさすかにラテンの国だなと思いつつ、自分が食べていた席に戻ると、食事はそのままであったが、ワインのボトルは明らかに出ていく前よりも目減りしている……。改めてここはラテンの国だということを思い知らされた。

 窓から外を見ると真っ暗でもう何も見えないが、車両の揺れの多さからカーブが多いのは何となくわかる。これからこの列車はいくつの山を越えていくのだろう。明日の朝にはブカレストに到着だ。

BUCURESTI (ブカレスト)

 中欧諸国では、最新の設備を備えた新しいホテルが次々とオープンしている。それに対抗する老舗のホテルは積極的な設備投資とサービスの向上を図るところがあるかと思えば、昔ながらの|日式の設備のまま変わらず営業を行うところがあったりと、その姿勢は千差万別。外観に惑わされず、部屋の設備もチェックしたほうがいい。

 どの国でも、ホテルの値段は年々上昇傾向にあり、近年は西ヨーロッパとあまり変わりなくなってきた。しかし、中欧にはプライベート・ルームという独特の施設がある。マンションや家の1室を貸し出す-種の民宿で、ホテルよりはるかに安い。プライベート・ルームは、観光案内所や旅行代理店で紹介してもらえるが、駅に客引きが出ていることも多い。客引きと直接交渉する場合は、設備などを確かめてから決めること。

トランシルバニア地方を巡る

 ブカレスト ー ブラショフ ー シギショアラ

 ルーマニア北西部に広がると欄知る場にア地方は、数々の伝説に彩られた土地である。深き森に囲まれた神秘的な雰囲気のなかにさまざまな民俗によって織りなされた歴史と文化が息づく。

ブラショフ市

 ルーマニアは3つの地方に分けることができる。南の平原地域のワラキア地方、北西でカルパチア山脈に囲まれたトランシルヴァニア地方、そして「5つの修道院」があることで有名な北東のモルドヴァ地方だ。

 首都ブカレストはワラキア地方に属している。ここからルーマニア第2の都市、トランシルヴァニア地方のブラショフヘはトランシルヴァニア・アルプスを越え、列車で3時間ほど。ブダペスト~ブカレスト間の路線上にあるため、ブダペストからの寝台列車を途中下車することもできるのだが、いかんせんブラショフの到着時刻が5時40分と早すぎる。夏ならちょうどいい時間だが、晩秋のこの時期はまだ外は真っ暗。今回はブカレストで乗り換えることにしたのだ。

 ブカレスト・ノルド駅から出発し、しばらくは単調な風景が続く。暗い空の下で荒涼とした平野が広がり、ときおり巨大なクレーンや古びた工場が姿を現す。そんな風景が1時間丿分ほど続いただろうか、まわりは次第に山に包まれていく。トランシルヴァニア・アルプスの始まりだ。ブラショフヘはここを越えなければならない。

 10月半ばの山脈は木々が赤く染まり何とも美しい。そもそもトランシルヴァニアとは森のかなたという意味。森の中を進んでいくと、これから別世界へと入っていくという感覚が襲ってくる。奥へ進むにつれ、山は雪で覆われ始め、しばらくすると完全に雪国に入り込んでいた。10月にこれほどの雪を見ることになるとは予想もしていなかったが、思わぬ雪景色のプレゼントとなった。

 しかし、シナイアを過ぎ、トランシルヴァニア・アルプスを越えると、あれほど積もっていた雪は姿を消してしまった。どうやら雪は山でしか降らなかったようだ。めまぐるしく変わる景色の末、18時49分に列車は定刻どおりブラショフに到着した。

肉とソースが決め手のルーマニア料理

 ルーマニア料理は、挽肉を丸めて焼いたミティティや、角切りの豚肉に濃厚なソースをかけたトキトウーラなどの肉料理が中心だ。それにトウモロコシ粉を蒸したママリガを添えて食べるのが一般的なスタイルとされている。ルーマニア料理は、オスマン朝の影響を強く受けており、トルコおよびバルカン半島全体で共通するものが多い。例えば挽肉をキャベツで包んだサルマーレは、ルーマニアで最も一般的な料理のひとつだが、ブルガリアではサルミと呼ばれており、どちらもトルコ語で「巻くもの」という意味のサルマが語源となっている。

 また、黒海側では広く魚が食べられている。

 アルコール類としては、スモモの蒸留酒、ツイカが有名。国産のビールなら、ベルガンビアー、ウルススなどが代表的な銘柄だ。

 ブラショフに来たならば、ドラキュラ伝説を抜きには旅の楽しみが半減するというもの。ブラショフ近郊には、ドラキュラ城のモデルとなったプラン城がある。ドラキュラのモデル、ブラド・ツエペシュの生家があるのは、シギショアラという町だ。ブラショフからは列車で1時間ほどの距離だ。

 ところで、プラム・ストーカーが執筆した小説『ドラキュラ』の冒頭は弁護士ジョナサン・ノーカーカダ車でトランシルヴァニアヘ向かうくだりから始まる。ミュンヘンからウィーン、ブダペスト、クローゼンブルク(現クルージ・ナポカ)を経由しビストリツァまで3日かけて旅しており、今回の中欧の旅と重なる部分も多い。この小説が発表されてから100年以上経ったが、景色や人々の暮らしなど現在もあまり変わっていない部分が多いことが実際に訪れてみてよくわかった。もっとも小説の一節に「東に行けば行くほど、鉄道の信頼性がなくなってゆくように思われる」というのがあるが、これは大いに改善されたようだ。

 シギショアラに到着して、ビエンタンヘと向かう。ビエンタンは、シギショアラから車で30分ほどの小さな村で、世界遺産に登録された「要塞教会心があることで知られている。教会は山の上に建ち、城壁に囲まれている。もともとはオスマン朝がこの地に攻めてきた時に備えて作られたそうだ。そういえばドラキユラのモデル、ブラド・ツエペシユにしても、オスマン朝の進軍に抵抗した英雄。かつてオスマン朝とハンガリー王国との戦いの最前線であったことが今さらながら強く感じられる地であった。

3つの地方から成るルーマニア

 ルーマニアは、歴史的にワラキア、トランシルヴァニア、モルドヴァの3つの地域に分けられており、それぞれが独立した公国だった。ワラキア公として有名なのが、ドラキュラのモデルとして有名なブラド・ツエペシュ。モルドヴァでは、戦勝のたびに修道院を建てたシュテファン大公がよく知られている。

 ルーマニアという国名が初めて用いられたのは、1859年にワラキアとモルドヴァが合併した時で、トランシルヴァニアが加わったのは第一次世界大戦中の1918年になってからのこと。それまではトランシルヴァニアはハンガリーに属しており、現在でもハンガリー系の住民が多い。

 現在のルーマニアの国旗に見られる三色は、黄色がワラキア、青がトランシルヴァニア、赤がモルドヴァをそれぞれ表している。

ドラキユラのモデル

ブラド・ツェペシユ

 プラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』のモデルとして知られているワラキア公ブラド・ツェペシュ(在位1448, 1456 ~ 1462, 1476)は、1431年にシギショアラで生まれた。当時はオスマン朝が領土を中欧に広げている時期であったが、ブラド・ツェペシュはオスマン朝の攻撃を2度も退け、国を守った英雄とされている。統治に当たっては一種の恐怖政治を敷いたことでも有名で、彼の最も好んだ処刑法が串刺しの刑であったことからツェペシュ(串刺し)と呼ばれていた。

 ドラキュラとは本来ドラクルの息子という意味で、彼の父がドラクル(竜騎士)に叙せられたことに由来しているが、ドラクルが悪魔という意味もあったことから、悪魔の息子ということになり、吸血鬼のモデルヘとつながってゆく。

ルーマニアの誇る世界遺産「五つの修道院」を訪れる

 ブカレストに戻った後、今度はルーマニアの北東、モルドヴァ地方の中心地スチャヴァヘ向かう。

 モルドヴァ地方の北部はブコヴィナ地方と呼ばれ、ここには建物の外壁にフレスコ画が描かれた「5つの修道院」と呼ばれる世界遺産があり、ルーマニア観光のハイライトとなっている。ブカレストからスチャヴァは、カルパチア山脈を左に、右にはどこまでも広がる平原を見ながら、北へ北へと進んでいく。単調だが、素朴さにあふれる景色は見ていて心が和む。

 スチャヴァ・ノルド駅は町からかなり離れた所にあり、徒歩で町なかへ出るのは不可能。タクシーで町まで行かなければならない。そのため駅に着くやいなやすぐにタクシードライバーが寄ってきた。駅から町へ行く途中、ドライバーはさかんに「5つの修道院」見学をすすめてくる。確かに「5つの修道院」見学のためには車とドライバーをチャーターしなければならないが、この古びたタクシーとドライバーの英語力では少々不安。ドライバーの執拗な修道院見学を断りホテルに着くが、運転手は明らかに不機嫌で、請求してきたタクシー料金は割高だった。

スチャヴァ市(SUCEAVA)

 翌日、ホテルの人に紹介してもらった別のドライバーは英語も上手で、車も新品。交渉の結果、1日50ユーロ(約6000円)で「五つの修道院」のほか、プトナ修道院も回ってもらうことにした。「5つの修道院」の外壁のフレスコは、みな同じモチーフによって描かれている。南にはキリストの血統を表す「エッサイの樹」や「聖人伝」、西には「最後の審判」といった感じだ。ただし、モチーフは同じでも、フレスコにはそれぞれの修道院ごとに個性がある。たとえばヴォロネツ修道院のフレスコは、ヴォロネツ・ブルーと呼ばれる深い青によって描かれており、スチエヴィツァ修道院は、「5つの修道院」のなかでは唯一北側のフレスコの保存状態がよく、「天国の階段」を見ることができる。また、各修道院は外壁だけでなく、内側にもフレスコ画が描かれており、こちらの見応えも充分。

 プトナ修道院は、「五つの修道院」には数えないものの、ステファン大公によって建てられた由緒正しき修道院。外壁のフレスコはなく、真っ白な外観だ。2004年がステファン大公の没後500年ということで、現在建物の中では補修作業と並行し、新たにフレスコ画を描いている真っ最中であった。作業中であるにもかかわらず、作業員たちは、描きかけのフレスコを見せてくれたり、通訳を買って出てくれ、おかげで修道士にいろいろな質問ができた。

 すべての修道院の見学を終え、スチャヴァに帰る途中に、プトナとスチャヴァを結ぶローカル列車に遭遇。乗客たちは満面の笑みを浮かべて手を振ってくれた。ここでは時間はどこまでもゆっくりと流れ、人々はおおらかに暮らしている。

モルドヴァの英雄 ステファン大公

 1453年にコンスタンチノープル(現イスタンブール)がオスマン朝の手によって陥落したように、ルーマニアもこれを前後に本格的にオスマン朝の脅威にさらされることになった。モルドヴァ公国のステファン大公(在位1457~1504)は、そんな迫り来るオスマン朝の軍勢をいくたびも退けたモルドヴァの英雄だ。ステファン大公は戦勝のたびに修道院を建てており5つの修道院のひとつに数えられるヴォロネツ修道院と、プトナ修道院はその代表的なもの。ちなみに、ほぼ時を同じくしてワラキア公であったのが、ドラキュラのモデルとして知られるブラド・ツェペシュである。彼らはいとこ同士にあたり、ブラド・ツェペシュがモルドヴァに亡命してきた時に知り合っている。2004年はステファン大公の死後ちょうど500年にあたる記念の年だ。

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