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▲トップへVlad The Impaler(ドラキュラ)
歴史群像 2003年6月号
吸血鬼ドラキュラは実在した!?
血に飢えた暴君とも伝わるその人の真実の姿はいかなるものだったのか?
吸血鬼ドラキュラ
天を突く針葉樹が黒々と繁る森の奥、月明かりに照らされてそびえ立つ古びた洋館がある。 そこに住む青白い顔をした黒マントの男は、夜な夜な街を徘徊し美女の生き血をすすっている--。 吸血鬼ドラキュラと聞けば、そのような場面を思い浮かべる方も多いだろう。そうしたイメージを創り出し、 また定着させたのは、アイルランド生まれの作家、エイブラハム(プラム)・ストーカーである。
しかし、吸血鬼という怪物自体は、ブラムが生み出したものではない。 吸血鬼や吸血魔女の伝説は古くから存在しているし、そもそもブラムの小説が登場する以前、 ドラキュラなる名詞は吸血鬼という意味を持ってはいなかった。ドラキュラとは、実在する人物の異名であった。 ブラムは彼の所業と吸血鬼の伝説とを結びつけ、怪奇小説に仕立て上げたのだ。
では、モデルとなったその人物とは何者で、どんな所業を成したのだろうか? 彼の名はブラド三世、ワラキア公国の君主にして、「串刺し(ツェペシュ)」あるいは 「ドラクラ(悪魔の子)」と呼ばれた男である。
混迷のバルカン半島
ブラド三世は1431年(1430年とする説もある)、トランシルヴァニアのシギショアラで ワラキア公国の公位継承権をもつブラドニ世の次男として誕生した。
バルカン半島中火部、現在のルーマニア領は、ブラドが生きた時代には北西部のトランシルヴァニア、 南部のワラキア、北東部のモルドヴァという三つの地域に分断されていた。 このうちトランシルヴァニアはカトリックを信仰するハンガリーによって占領され、 十二世紀にはハンガリー王が任命する領主によって統治される属領と化していた。
残るワラキアとモルドヴァにはルーマニア人(ダキア人)による国家が成立しており、 宗数的には近隣国である東ローマ帝国の影響下にあって、東方正教会を信仰していた。 これらの国家はその成立の当初より、ハンガリーとオスマン・トルコ帝国との間に挟まれ、 その外交政策は常に綱渡りを強いられていた。
ブラド三世の祖父に当たるミルチャー世の治世(一三八六~一三九四)になっても、 ワラキアを取り巻くその状況は変わらなかった。当時のワラキアはオスマン・トルコの圧力に膝を屈し、 貢納金の支払い要求をのむという苦渋を強いられていた。
ワラキアの、そしてブラドー族最大の敵となるオスマン・トルコは、十三世紀の終わりに成立した イスラム教国家である。オスマンという名の戦士が築きあげたこの帝国は十四世紀に入ると 、すでに斜陽にあった東ローマ帝国を追いつめ、イスラムの教えを世界に広めんと、 ヨーロッパヘの侵攻をうかがい始めていた。
1418年にミルチャー世が死去すると、オスマン・トルコの支援を得たアレクサンドルー世 がワラキア公の座に就いた。しかし、トルコに臣従するかのような彼の政策はワラキアの 地主貴族たちにとって納得のいかないものだった。 そこで彼らはミルチャー世の庶子であるブラド・ドラクルと密議をかわし、 アレクサンドルの退位を画策し始めるのである。
このブラド・ドラクルーブラドニ世が、ブラド三世の父である。 ブラドニ世はハンガリー王ジギスムントの支援を得ており、 当時、神聖ローマ帝国皇帝をも兼任していたジギスムントによって、 帝国内の有力者で構成されるドラゴン騎士団の団員に叙されると同時に、 トランシルヴァニア内のアルマシュとファガラシュを領地として与えられていた。
ブラドニ世はその領地を足がかりに、ワラキア侵攻の準備を開始する。 彼の次男としてブラド三世が誕生したのは、ちょうどこの頃のことである。
1436年、ブラドニ世はワラキアヘ軍を進め、アレクサンドルー世を放逐してワラキア公位簒奪に成功した。 戦場に姿を現したブラドニ世は、ドラゴン騎士団員の証明となる龍の旗を掲げていた。 彼がドラクル(ルーマニア語で龍、あるいは悪魔)の名で呼ばれるのはこのためである。 だが、そのブラドニ世もやはり、オスマン・トルコの軍事力の前には屈服以外の道を選べず、 ワラキアに対するトルコの宗主権を認めざるを得なくなるのである。 しかしそれは、キリスト教の国々を敵にまわすことでもあった。
1442年、トランシルヴァニア領主ヤノシュ・フニャディの率いるキリスト教連合軍がバルカン半島を南下し 、トルコの属国となったワラキアヘ攻め入った。この戦いはトルコ側の敗北に終わり、 ブラドニ世は子供たち共々オスマン・トルコヘと亡命する。だがトルコのスルタンは彼のために働いたブラドニ世たちを厚遇せず、 そればかりか逮捕するよう命じたのである。
翌年、ブラドニ世はオスマン・トルコヘの服従を条件に赦され、トルコ軍の支援のもとでワラキア公に返り咲いたものの、 ブラドニ世の二人の息子-次男ヴラドと三男ラドウは、人質としてトルコ領内に留め置かれることになってしまう。 ここから、ドラキュラと呼ばれた男、ブラド三世の、苦難に満ちた変転の後半生が始まるのである。
裏切りと逃亡の果て
人質としてオスマン・トルコ領内に残った十一歳のブラド少年だったが、彼はただ無為に、悲しみにくれて日々を過ごしたりはしなかった。 いつ処刑されてもおかしくはない立場にあっても、彼はそこから這い上がる力を得ようともがき続けた。彼にとってそれは、 トルコ流の政治システムや軍制を学ぶことだった。
自らの能力以外に支えのない、信頼関係の欠落した人質生活の中にあって、彼の猪疑心は次嬉に肥大していった。 この少年期の境遇が、のちに吸血鬼と結びつけられてしまう彼の性質を形づくったのだと思われる。
一方、ワラキア公に復帰した父ブラドニ世は、手のひらを返したように反トルコの姿勢を示し、 トランシルヴァニア領主ヤノシュ・フニャディと結んで長子ミルチャと共に反トルコ十字軍に加わった。 人質である二人の息子を見捨ててでも、ワラキアの独立を勝ち取ろうとしたのである。
だが、1444年に行われた両陣営の戦いは、キリスト教側の一方的な敗北となった。 十字軍の一部はオスマン・トルコに買収されており、陣営の足並みがそろわなかったのである。 この戦いでハンガリー王は戦死し、ローマ教皇が派遣した枢機卿も殺害された。敗戦の責任を問う会議において、 ブラドニ世と長子ミルチャは、すべての責任を指揮官ヤノシュになすりつけた。この件がもととなり、 トランシルヴァニアとワラキアの関係は険悪化してゆく。
王を失ったハンガリー国内では、しばらく混乱が統いたが、これを平定したのはヤノシュ・フニャディだった。 今回のトルコ戦には敗北したものの、彼はこれまで何度も対トルコ軍事作戦を成功させており、 貴族たちからの信任が厚かったのである。
一四四七年、ハンガリー摂政に就任したヤノシュは、対立を深めていたワラキアを成敗すべく軍団を南下させた。 ブラドニ世とミルチャは捕らえられ、父ブラドは沼沢地の修道院で処刑され、ミルチャは自ら墓穴を掘らされたのちに生き埋めにされた。 この処刑はヤノシュの命令ではなく、ワラキア国内の反ブラド貴族たちの仕業ではないかとも伝えられている。
ともあれ、空位となったワラキア公の座には、ヤノシュの後ろ盾を得たワラキア公家一族のヴラディスラフニ世が即位した。 しかしハンガリー寄りの姿勢を示すヴラディスラフを容認するわけにいかないオスマン・トルコは、 人質であったブラドを担ぎ出し、彼をワラキア公に即位させようと画策し始めた。
その機会は意外にも早く、キリスト教側から与えられる。ローマ教皇の支援を得て、 またも十字軍を編成したヤノシュは、バルカン半島西部へと侵攻した。オスマン・トルコ側も三万の兵力を投入し、 一四四八年十月、両軍はコソボの地で激突した。
ブラド三世も参陣したこの戦いはトルコ軍の勝利となった。戦いの直後、ブラドはトルコ軍と共にワラキアに帰還し、 首都トルゴヴィシテに入城した。
こうしてワラキア公の座に就いたブラド三世であったが、彼の第一期の治世はわずか二か月で終わりを告げる。 態勢を立てなおしたヤノシュのハンガリー軍がワラキアに攻め入り、ブラドを追い落としたのである。
ワラキアを脱出したブラドは、叔父であるボグダンニ世の統治する隣国、モルドヴァ公国へ逃亡した 親戚筋のモルドヴァ公家はブラドを温かく迎え入れた。そこでブラドはボグダンの嫡男シュテファンと出会い、 意気投合することになる。人質生活ですっかり心をすさませていた彼も、従兄のシュテファンには気を許せた ようで、二人は互いが権力を奪取できるよう協力しあうことを約束し、生涯の友となるのである。
しぼしの穏やかな日々を過ごしたブラドだったが、運命は彼に永きの休息を与えはしなかった。1451年、 モルドヴァ国内で公位をめぐる内紛が起き、叔父のボグダンニ世が暗殺されてしまうのである。一瞬にして後 ろ盾を失ったブラドはシュテファンと共に国外への逃亡を決意するが、その亡命先が意表をついていた。
ブラドは、父と兄の仇敵であるヤノシュ・フニヤディを頼り、トランシルヴァニアヘ落ちのびるのである。 敵対者のもとへ向かうブラドは、捨て身の覚悟であったろう。しかしトランシルヴァニア領主兼ハンガリー摂政で あるヤノシュは、古きよき騎士道精神にあふれた武人だと評され、敵であるトルコのスルタンからも敬意を示さ れる人物であった。ブラドとしては、ヤノシュのそういった一面にすがるしかなかったのであろうし、ヤノシュの名声と ハンガリーの軍事力を味方につけることができれば、奪われたワラキア公位を簒奪できるとの読みもあったに違いない。
ヤノシュにとっては、ワラキアの公位継承権を持つブラドは政戦両略上の貴重な駒であった。この頃、ヤノシュの 支援によってワラキア公となったヴラディスラフは、歴代ワラキア公がそうであったようにトルコ軍の圧力に崩し 次第にハンガリーと距離を置くようになっていたから、ブラドの亡命はワラキア公交代の機会が向こうから転がり 込んできたようなものだった。
ヤノシュはブラドを迎え入れて重用し、出陣の際には傍らに置いて軍略を学びとらせた。 ブラドも仇敵であったはずのヤノシュを師と仰ぎ、与えられるそのすべてを吸収していった。 確証はないが青年になったブラドは、父と兄を殺したのはヤノシュではなく、ワラキア貴族たちだと 感づいていたのかもしれない。
同じ頃、スルタン・メフメトニ世に率いられたオスマン・トルコ軍は、コンスタンチノープルを陥落させ、 東ローマ帝国を滅亡させた。一四五三年のことである。コンスタンチノープルをイスタンブールと改名して 首都に制定したトルコは、さらなるバルカン半島への進出を開始する。
これに対抗したキリスト教連合軍はトルコ軍を撃退することには成功したものの、指揮官のヤノシュは 戦場に広まった黒死病に感染し、還らぬ人となった。
この時ブラドは、ヤノシュから与えられた軍勢と反ヴラディスラフの意を示したワラキア貴族を従え、 故国ワラキアヘと侵攻を開始していた。貴族たちからの支持を失っていた ヴラディスラフはブラドの攻撃に抗することができず、あっけない最期を遂げた。
1456年8月、ついにブラドはワラキア公に復帰し、彼にとって第二期の、 そして後々まで伝説として語り継がれることになる治世が、ここに始まるのである。
串刺し公ブラド
ワラキア公に即位したブラドは、国内秩序の回復と安定を図る一方、国家権力の中央集権化を押し進めてゆく。
当時のワラキアの政治制度では、君主(公)の下に有力な地主貴族からなる公室評議会が存在したが、 この評議会のメンバーたちは特権を有し、君主の権限さえ脅かしていた。 またメンバー同士の権力争いが原因で国政が乱れ、そこを外国勢力につけ込まれることもしばしばだった。 これを憂いたブラドは、まず評議会から特権を剥奪し、発言権を弱めようと画策する。
その手段は強引かつ直接的で、評議会の多くのメンバーを「国を弱めた」ことを理由に罷免するというものであった。 その後任には、ほとんど発言権を持たぬ中小の貴族があてられた。
むろん、こうしたブラドの手法は多くの反感をかうことになり、一部の大貴族がブラド暗殺の計画を画策し始める。 しかしブラドは先手を打って反対派貴族の弾圧に乗りだし、その多くを処刑してゆく。この時の処刑法が、 のちに彼の悪名を高めることになる串刺し刑であった。
しかし、今日的には残虐極まりなく思えるこの処刑法は、ブラドの発明になるものではない。 当時のヨーロッパでは普通に見られた処刑法であり、オスマン・トルコにも同様の刑を処した記録がある。 ただブラドのみが残虐非道の悪名を被るのは、そこに意図した悪意が絡んでいるからである。
とはいえ、通常串刺し刑は身分の低い極悪人に対して用いられる処刑法であり、 貴族に対しては斬首刑が一般的であった。そのため、この非情な処刑法は国内の反対派を鎮める には効果絶大であった反面、さらラドに対する反感を強めることにもつながった。 さすがにブラドもそれを憂慮したと見え、貴族に対しては斬首刑を用いるようになってゆくのだが、 敵対者に対する弾圧それ自体が沈静化することはなかったのである。
このブラドの強引な改革を支えていたのは、君主直属の常設軍であった。 それまでワラキアで軍隊といえば、地主貴族と彼らに従う家臣たちからなる封建的騎士集団であった。 しかしこの軍隊は必ずしも君主に忠実というわけではなく、貴族の意向によっては 敵にもなる扱いづらい軍事力であった。
そうした従来の軍制に拠らぬ新しい軍隊は、農民や自由民の中から成人男性を徴募して結成された。 さらに君主の身辺警護を任務とした親衛隊を組織し、暗殺などの企みに対する対抗策も講じている。
彼らの士気を高めるためにブラドは、戦場で武勲のあった者を英雄として讃え、 騎士の階級と反対派貴族から取りあげた土地を与えることとし、 反対に敵前逃亡などの卑怯な行動をとった者には、串刺し刑をはじめとする容赦のない懲罰を科した。
この君主直属の常設軍隊はブラドの中央集権体制の基礎となり、 また油断ならぬ地主貴族たちへの抑止力にもなってゆく。
ブラドは軍事力を背景に、さらに反対派貴族への弾圧を強めていった。 一説によれば五〇〇人もの貴族が捕らえられ、処刑されたらしい。 ブラドは、反対派貴族の中に父と兄を謀殺した犯人がいるとにらみ、 これを処罰するために徹底した弾圧を行ったともいわれている。
こうした制裁を可能にした常設軍隊を維持してゆくには、多額の資金が必要であった。 そこでブラドは国内産業の育成と活性化を目的に、保護貿易政策を推進し始める。
それまでワラキアやトランシルヴァニア地方では、十二世紀頃より入植していたサシ人 (ザクセン人)商人が幅を利かせ、ルーマニア人の商業活動を圧迫していた。 彼らサシ人は一方的に設定した安い価格で現地の品々を買い取り、 それを高値で売りさばいて利潤を貪っていた。 むろん、そこにルーマニア人商人の介在が許されることはなかったのである。 しかもカトリックであるサシ人たちは、東方正教会の信徒であるルーマニア人を 差別すること甚だしかったともいわれている。
この状況を是正すべく、ブラドは商取引に関する新たな法律を制定し、 サシ人の商活動を制限すると同時に自国商人の保護をはかった。 当然、これに対しサシ人たちは不満の声を上げ、 トランシルヴァニアヘ亡命中の前ワラキア公の遺児ダンと手を結び、公位簒奪の機会をうかがうようになる。
しかしサシ人たちの支援を受けてワラキアヘ攻めこんだダンは、 ブラドが編成した常設軍の前に敗れ、斬首刑に処せられてしまう。 もちろんダンの背後にいたサシ人たちも見逃されはしなかった。 ブラドは彼らが根拠地としていたトランシルヴァニア領内の街へ軍隊を派遣し、 一帯を焼き払うという報復を行ったのだ。
このブラドの過酷な富国強兵政策は、一般民衆に対しても容赦がなかった。 勤勉かつ道徳的に生活することを求め、秩序を乱す者や不正をはたらく者には 容赦のない処罰が科せられた。そのため犯罪者は激減し、国内の治安は安定した。 民衆の道徳心をはかろうとしたブラドが、人気のない水飲み場に黄金のコップを置いてみたところ、 それを使って水を飲む者はいても、盗む者は皆無であったという逸話が残されている。
そうした秩序を保つために、犯罪者の温床となる貧者や浮浪者に対しても、ブ ラドの果断な改革の矛先が向けられた。それについては次のような伝承が残っている。
ある時、国内の数か所の館に貧者や病人、老い先短い老人などが集められた。 ブラドは彼らに豪華な食事をふるまい、その後で今の惨めな生活を終えたくはないかと尋ねた 。彼らがうなずくと、ブラドは館に火をつけ、集まった貧者や病人を皆殺しにしたのち、 これで我が国から貧者と犯罪者はいなくなったと語った、というのである。この政策は、 当時ヨーロッパの各所で蔓延していた黒死病対策であったとする研究者もいるが、 どちらにせよブラドの容赦のない性格を、今日によく伝えるエピソードではある。
その容赦のなさ、そして串刺し刑を多用したことから、ブラドは「ツエペシュ(串刺し)」、 あるいは悪魔の子という意味で「ドラクル(ドラキュラ)」の名を冠されるようになるのである。
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