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第四章 正教会の世界観

人間

ルーマニアの宗教―正教

これまで度々述べたように、私たち人間は神に似せて造られました。人間とは「神のイコン」である、というのが正教会の人間観です。旧約聖書の創世記によれば、神はご自分の「像」と「肖」に従って人を創造されました。「神の像」とは、神に近づくための力や可能性や出発点を意味し、「神の肖」とは、その実現や完成を意味します。人間は初めから完璧な者としてではなく成長し進化すべきものとして造られたわけです。しかし、人間は罪によって「神の肖」を失ってしまい、「神の像」も破損しました。破損した「神の像」は、それでも消滅せずに残存しています。どんな人間でも神のイコンでありっづけるので、一人一人の人間は、かけがえのない尊き存在なのです。

「神の像と肖」という時、その「神」とは至聖三者の神であることを見落としてはなりません。人間が多恨陸をもち、一人一人がかけがえのない「個」でありながら、一つに一致し、愛の交わりをもつことができるのは、至聖三者に似せて造られているからです。人が「神の像」をもつことは、人が理性をもつことに置き換えて説明されることがあります。確かに人が大いなる知識と知恵と理解をもって社会生活を営むことは、私だちと動物とを区別する一面です。しかし、理性だけが人間の唯一の特性ではありません。正教会では「神の像」の中の「自由意志」に強調を置きます。神が自由であるように、人間も自由です。自由であるが故に、真実の愛をもって愛し合うことができます。神様は人間からこの「自由意志」を取り上げません。もし人間からそれを無くしたら、人間ではなく人形かロボットになってしまいます。もちろんすべてのことを行うのは神様ですが、人間には、それを受け取るか拒絶するかを選択する自由意志が残されているわけです。神の力を受け入れるべき人の力が私たちにはあるのです。この神の力と人の力との共同のことを正教会では「シネルギイ」と呼びます。「シネルギイ」とは、「力を合わせる」という意味です。人間は神との「シネルギイ」によって、生活し、成長し、信仰し、救われるのである、と正教会は教えます。「シネルギイ」の典型的な例が生神女マリヤです。神・聖神の力とマリヤの自由意志による従順の力が、ハリストスという「救い」をもたらしました。

 

神の像としての人の成長や発展には、終わりがありません。限りなく尽きることなく、人は、神に似てゆきます。それは、神ご自身が限りなく永遠であるからです。 私たちが、神の完全な像であるハリストスと共に感謝をもって自分とこの世を献げようとする時、神の像は回復され始め、テオシスが開始します。

天使と悪魔

神様が造った万物の中で「見えざる」部分に属しているのが天使や悪魔です。「見えざる」と言っても、単にこの肉眼では捉えられない世界というのではなく、物質的な世界に属さないスピリチャルな(正教会では「属神」といい、一般では「霊的」という)世界のことです。つまり物質の中にある見えない部分という意味ではなく、それとはまったく次元の異なる世界という意味です。空気や時間は肉眼では見えませんが、物質的な物理的な世界に属するものです。天使は、しばしば人間の目に見える形で現われたりしますが、属神の世界の存在です。この「見えざる」世界も、神様が創造されたものであり、神様ご自身の存在とは本質的に異なる世界であることも注意しておかなくてはなりません。

さて、正教会の聖伝によれば、この「見えざる」世界は、「見える」世界に先立って創造されました。言い換えれば、天使は人間より先に造られたということです。聖書は、天使の創造について詳しくは語っていませんが、その存在と働きについては、私たちに啓示されています。

摂理

神様はこの世を造ったきりで、後は放っておくなんてことはなさいません。神様は、いつでも今でもこの世を創造しつづけ、見守っておられます。この世に対する神の配慮を「摂理」と言います「」E教会では「照管」とか「定制」と呼ぶこともある)。ギリシャ語では「オイコノミア」と言います。これは「経済」と訳される「エコノミー」と同じ言葉で、もともと「家庭の世話」という意味です。これが神様に関して用いられた時に、神のこの世に対する「配慮」とか「管理」という意味になります。この世は神の意志によって創造されました。そして神の意志によってこの世は摂理され続けます。さらに、私たちのために神様が人となったこと、聖神が降ることも「オイコノミア」と呼ばれます。

神が摂理なさる、ということを正教会は信じていますので、例えば、迷信とか占いとか運命とか因果応報などは正教会では否定されます。縁起をかついでこのことをすれば、あるいはしなければ、いいことや悪いことが起きる、という迷信は、神の力を無視した態度です。占いも、それ自体の考えに根拠がないだけでなく、神ではないものに生活や人生を委ねてしまうわけですから、正教徒は占いをしたり頼ったりしてはいけません。

運命を、最初からそう定まっていたことだからどうしようもない、という意味にとるなら、それは神の意志や自分の意志を拒絶してしまうことになります。因果応報とは、災いがぶりかかるのは何か悪い原因があり、幸いを得られるのは何か善い原因があったから、という考えです。確かに聖書にも、悪者の災いと義人の幸いが描かれていますし、逆に悪者が幸いを得て義人が苦難をうける現実を神に訴えている記述もあります。しかし、それは正義をもって神様が摂理なさることを信じるからです。そうではなく、例えば、大きな病気を患ったのは先祖を敬わないせいだ、とか、不幸が続くのは何か悪い因果があるからお祓いをしなければならない、などという意味の因果応報は、まったく否定しなければなれません。たとえ悪や困難や災いがあったとしても、「神の摂理の方法は、言葉で説明できないし、心で把握することもできない、ということを知っておきましょう」(ダマスコのイオアン)。

天国

ハリストスは、「悔い改めよ、天国は近づいた」と言われました。ブ天国」は「神の国」とも呼ばれます。「天」は「神」の代名詞として使われます。「国」といっても、この地上にあるどこかの国という意味ではありません。「国」と訳されたギリシャ語は「バシレイア」といい、「王」とか「支配」という意味をもっています。つまり「天国」とは、神であるハリストスが王として万物を支配する状態のことをいいます。ハリストス王の支配とは、私たちが罪や悪や死から解放トされ、神のみ旨が十全に行われるということです。「天国が近づいた」というのは、ハリストスが人となってこの世に来られ、復活して「死上をもって死を滅ぼされる」ことを意味します。しかし、その救いを受け入れるか否かは、私たちの意志にかかっていますので、「悔い改めよ」という呼びかけがなされるわけです。

ハリストスは、「神の国はすでにあなたがたのところにきた」とlも言われました。ハリストスが人として来られたという事実、そして教会があるという現実は、「すでに神の国は来た」ことを証します。教会は、ハリストスに治められながら、この世で罪や悪や死からの解放を先取りする機関だからです。正教会の聖人たちはそれを証し、大正教会の奉神礼はそれを宣言しています。しかし、まだ天国は来ていないことも事実です。この世では、まだまだ悪が横行し、罪深く過ちに満ちた現実がたくさんあります。

いつ天国は完全に来るのか、というと、ハリストスが再びこの世に来られる時です。そのことを「再臨」といいます。二千年前、ハリストスはケノーシス(へりくだり)の形で誰にもわからないように来られましたが、今度は、「光栄を顕わして」誰にもわかるようしに再臨されます。もし「この人は再臨されたハリストスです」と解してしまいますが、たましいは「復活」のために存続します。しかし、それは「霊魂の不滅」とは違います。「霊魂の不滅」とは、悪く罪深い肉体から善なるたましいが解放されて、霊的世界で永遠に生きるという教義です。「霊魂の不滅」は肉体や物質も神が造った尊い物という信仰を否定し、人間の本来の姿を見失わせる考えですので、受け入れられません。また死後の「霊界」などいう世界を想定して、まことしやかな描写を行い、死の恐れを払拭しようとしたり、この世と同じような「別の世界」をイメージして、それを「天国」と称してみたりすることも、正教会が教える「復活」や「来世の生命」とは異なります。

また、死者のたましいは終末まで「眠っている」状態にあるというのも、正教会の教えではありません。確かに正教会では死ぬことを「永眠」と言いますが、これは「復活」を強調するための表現です。死者のたましいは、どんな状態にいるか不明ですが、私たちとの関係を継続させながら、復活を待っています。人は死んだら天国に行くのではなく、人はたとえ死んでも天国を失わないのです。天国はハリストスによってすでに来たのですし、やがてハリストスによって完全にもたらされるのですから。

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