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▲トップへアルボレ修道院
スチャヴァ市から約30キロ北西に、同名の村の近くにある。国鉄の最寄りの駅はラダウツイとゲラ・フモルルイ市であるが、そこからの交通が非常に不便である。ゲラ・フモルルイとラダウツイから出発するバスは一日一本のみで、ビツチハイキングでもしない限り、村で宿泊するしかない。修道院は小さくてあまり目立たないため、せっかく村に到着したとき見逃さないように注意が必要である。
修道院は、1503年4月2日に着工し、同年8月29日に完成した。
シュテファン大公が領主だった時代の貴族「ルカ・アルボレ」がこの修道院を建てました。修道院の名前は「伝道師ジョン」。アルボレの姿は、修道院の2ヶ所に描かれています。アルボレ修道院は、彼の死の40年後に完成しました。
壁画は聖書のシーンもありますが、十字架をテーマにした絵がほとんどです。
特に有名な絵は、312年の「コンスタンティヌス大王」と「マクセンティウス」との戦闘シーンです。
マクセンティウスは、自分を勝手に皇帝であると宣告し、コンスタンティヌス大王の殺戮を狙って戦争を開始。伝説によると、キリスト教ではなかったコンスタンティヌスは、「キリスト教の象徴である十字架を、尊崇して戦えば必ず勝つ」という夢を見ました。そこで、彼は戦士の盾に十字架を刻ませ、十字架の加護のもとで戦争をして勝利したのです。
このモチーフをメインにして描いた絵がアルボレ修道院には数多くあります。建立者はシュテファン大公の大将ルカ・アルボレ(Luca Arbore)である。アルボレ大将は1486年に、当時モルドヴァの首都であったスチャヴァの市長に就任し、彼について1497年にモルドヴァがポーランド軍の襲撃を受けて、スチャヴァ要塞が篭城されたとき、必死な戦いの末スチャヴァ要塞を守り抜いたという大業の伝説がある。
モルドヴァ公国の領主が建立した他の教会堂と比べて、貴族の一人に過ぎなかったアルボレ大将が建てたこの教会堂は小さく、装飾が控えめで、全体的に質素である。平面図を見ると、形が長方形で建築構造として単純なほうである。壁は村の周辺から採掘された石材で作られており、ほとんど切り出されたまま積み上げられた状態になっている。入口や各窓のアーチは焼きレンガで構成される。入口から始まる拝廊が真っ暗だが、奥へと進むと身廊に大きな窓があいている。長年の間、通常教会堂の近くに建つ鐘楼はなく、鐘は教会本館の西側に二重のアーチに置いてあったらしい。現在は本館と壁の一部を共通とする鐘楼がある。
建築の面、そして装飾の面では控えめな教会であるが、外壁・内壁共にある壁画は他の教会堂に勝るとも劣らず、注目に値する。壁画全体の地色は緑色で、他の修道院と一味違った印象を与える。これにすばらしく対照する赤、桃色、青、黄などのさまざまなニュアンスが長年鮮やかさを保ちつづけた。しかし、さすがに老朽化した部分があって、それらを修復する計画が立てられたとき、顔料の成分や合成法に関する記述が見つからず、作業が難航した。最近の科学的な分析でようやく顔料が再現できるようになったが、分析の結果30以上のさまざまな物質(動物由来の物質や、酢、卵、胆汁、ハチミツなど)が使われていることが判明し 外壁の彩画はヤシ出身のドラゴシュ・コマン等の一団によるものである。東方キリスト教と西方キリスト教の伝統的なテーマや手法を併せ持っている。テーマは宗教場面と歴史的な場面の両方があるが、遠近法や流動的な表現などルネサンスの最新の手法が見られる。北モルドヴァのすべての教会と同じように、四季の天候による悪影響が少ない西側の壁が、保存状態がもっとも良い。
「コンスタンティノープルの包囲」は、626年にコンスタンティノープルがペルシア軍によって篭城を受けた歴史的な事実を基にしているが、登場している軍の人物たちはペルシア人ではなく、トルコ人、アヴァール人、スラヴ人など、数世紀前からモルドヴァを攻撃してきた様々な移住民族の特徴をもっている。
新約聖書の場面を画く「東方三博士の旅」、「聖母」には、画家たちが想像したイエスの国子スラエルが背景に出てくる。起伏や岩が多い風景となっている。
後陣には政治的・社会的な意味合いが強い「諸聖人の祈り」がある。聖人が大勢立ち並ぶ中心に、若きイエスを背負う聖クリストファーが描かれている。他の教会にも画かれているテーマだが、人物とスタンスはモルドヴァ地方において他に類を見ないもので、西方キリスト教の美術の影響を受けているとみなされてい 教会の西側外壁には、ただの壁画というより、聖書め大型絵本のような細密画が画かれている。 下から上へと見ていくと、「コンスタンティノープルの包囲」が下の一段をなし、「聖母の生涯」「モーセの物語」などが真中にある。そして上部には「イエスのエジプト逃亡」と「幼児の虐殺」がある。この細密画の手法による「絵画集」とても呼べる絵は、アルボレ修道院特有のものである。 南側外壁には『創世記』から『聖人伝』に至るまでの場面が描かれている。「最後の審判」はかなり劣化しているが、力強く印象的な作品であることがうかがえる。光を斜めから当でると、彩色が施される前につくられた、引っかき傷のような線刻が見える。 死者の魂を包む布や、天国の青々とした植物の表現は注目に値する。
教会の近くには2つの巨大な石板がある。石板には15個の小さな穴があり、壁画に用いられた顔料と同じ成分の跡が確認されたことから、かつて顔料を混ぜ合わせるための容器として使われていたと考えられる。
教会堂の中は、17~18世紀に多大な被害を受けてしまい、壁画の内容はほとんど分からない。拝廊の一部は、建立者ルカ・アルボレ大将と、その妻ユリアーナの墓となっている。ユリアーナがポーランド人であったためか、その墓石の石彫はゴシック風となっており、ゴシック様式が洗練されていたカトリックのポーランドの影響が強く感じ取られる。
祭壇などに置かれたイコンなどは、修道院が攻撃を受けるたびにはずして隠すことができたため、被害を受けずに済んだ。各イコンが昔から保護用の材質で覆われており、絵が少し曇っているが、それは教会の建造時期から施されたもので、おかげで中のイコンが健在である。
修道院は1909~14年、1936~37年に修復作業を受けており、現在ではこの地方の歴史資料を展示する博物館になっている。