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ミオリツァのお話
モルドヴィア、ワラキア、トランシルヴァニアの3つの地域からの羊飼いは自分の羊たちとともに一緒に道中を旅していました。けれどもモルドヴァの羊飼いは裕福であったため、他の2人は嫉妬して彼を殺し、羊を奪おうと計画していました。しかし、モルドヴァの羊飼いの羊の中で最も忠実な羊であるミオリツァは彼らの話を聞いており、自分の主人を守ろうとしました。ミオリツァは自分の主人に、今すぐ自分の身を守るために対策をしなければいけないと忠告しました。しかし彼の主人の反応は驚くべきものだったのです。彼は、死を恐れず、何が起ころうともそれを受け入れると言ったのでした。
しかし同時に、全てをこのままにしてこの世を去るわけにはいかないと思った彼は、ミオリツァに最後の願いを託しました。それは他の羊たちを悲しませたくないため、彼の死を知らせないこと。その代り彼が美しい王女と結婚したと伝えるように、と言いました。その結婚式では、山が司祭で、月と太陽が神父、周りにはモミの木とイチジクの木、空を飛ぶ鳥が歌っています。しかし、この結婚式では、人生の終わりを象徴して星が流れるのです。死と結婚式を関連させるのは現在も受け継がれている実際のルーマニアの葬儀の風習と関係しています。人は誰も人生の中で先例、結婚、そして死の三つの出来事を体験しなければならないため、未婚の死者は結婚式の衣装をまとって埋葬されるのです。またこの死に対する姿勢はダキア人から受け継いだものであるようです。また羊飼いは彼の母親が彼を探しに来た時も同じことを言うようにと言いました。しかし、彼の死が悟られないよう、流れ星のことは言わないように、とも言いました。
これはルーマニアでの人と自然との強いつながりを描いた詞が原作となっています。またミオリツァはルーマニア精神の精髄として受け止められ、ルーマニアの牧歌的風景を象徴しているといえます。
マノレの伝説
歴史に残る素晴らしい宗教的な建造物には人々の願いが込められており、魂の宿るものと言われているように、当時の人々が命をかけて創り上げたものばかりです。不思議な力は、命をかけた沢山の人々の想いや祈りからきているのかもれません。
1512年から1521年という9年の歳月をかけて建てられたクルテア デ アルジェシュ修道院にはこんな伝説があります。
昔、今はアルジェシュ修道院として知られている美しい建築物は、熟練職人のマノレによって建てられました。彼は当時の最高の建築職人の一人でした。その腕を見込んで、ワラキアの最初の支配者であったネグル・ヴォダはマノレとその仲間に修道院を立てるように命じました。その際、ネグル・ヴォダは後世に自分の名前を永遠に残したかったため、それまでのどんな修道院よりも美しいものを立てるようにと命じました。彼はマノレたちに、もし修道院を建てられたならばたくさんの報酬を与えるが、もし失敗したら命はないと言いました。
マノレたちは早速工事を始めましたが、いくら昼間に一生懸命建てても夜には崩れてしまいます。しかしある夜、マノレは不思議な夢を見ます。夢の中で、彼は、人間の犠牲だけがその呪いを解けると言われたのです。そして次の朝、最初に現れた女性がその犠牲にならなければならないとも。マノレはその夢を他の仲間たちにも話し、犠牲者として捧げることに決めました。彼らがネグル・ヴォルダに殺されるか、最初に現れた女性が犠牲になるしか助かる道はありませんでした。
次の朝、彼らは息を殺して、そして最初に現れる女性が彼らの愛する人ではないことを祈りながら日が昇るのを待ちました。しかし皮肉なことに、マノレの目がとらえたのは、彼の身ごもった妻であるアナの美しいシルエットでした。間もなく彼の目は涙で溢れ、神に彼女を追い返すように、そして風にできるだけ強く吹いて雲に嵐を呼び寄せてくれと祈りました。しかし奇跡は起こらず、何も知らない彼女はただマノレの元へたどりつき、悲しい運命が決定してしまったのです。
その犠牲は、彼女には最初は遊びに思えました。しかしその遊びは彼女がレンガで完全に埋められてしまうまで続き、修道院の建設はついに完成しました。少なくともネグル・ヴォダはとても喜んだそうです。マノレたちがまだ屋根の上で工事をしている間、彼は今後アルジェシュよりも美しい他の修道院を建てられるかと聞きました。彼らは修道院を建てる経験をより積んだため、できると答えました。他の誰かが自分の修道院より美しい修道院を建てると考えたネグル・ヴォダはカンカンに怒り、マノレたちを屋根に残して足場や階段をすべて破壊してしまいました。マノレたちは木で作った羽で飛んで逃げようとしましたが、誰も助かりませんでした。そして、マノレが落ちた所には泉が現れたといいます。
現在、世界中からの観光客がマノレの作品を見にこの修道院を訪れています。修道院の南側の壁には、アナが犠牲になった場所として赤い印が刻まれており、マノレの泉は噴水になっています。アルジェシュ修道院はブカレストから北西約140キロいったところにあり、ルーマニア一美しい修道院だといわれています。外部は白亜でぐるぐると天に突き抜けるような形をしており、中は豪華絢爛な装飾が施されています。妻アナの犠牲に涙したマノーレとだけあり、その泉の水はしょっぱいと言われています。これは「真の創造者は全てその名の芸術の元に、多くの犠牲を払わなければいけない」ということを表しているのかもしれません。
この修道院からローマ帝国時代に作られた道を通って、ヴァレアオルトウルイ(Valea Oltului)のコズィア(Cozia)とトウルヌ(Turnu)修道院を見物できます。付近には、夢のように美しい風景やりっぱな修道院があります。ルーマニアは北海道とほぼ同じ緯度で、四季の移り変わりなど日本の気候と似ています。6-8月は平均して23度前後です。真夏は30度を超える日もありますが、湿度が低く比較的過ごしやすいため、避暑に来る人も多いようです。夏にルーマニアを訪れる際は、是非マノーレ伝説があるアルジェシュ修道院を訪れてみてはいかがでしょうか?
ドラキュラ伝説
15 世紀のワラキア公ヴラド3世は1431年シギショアラに生まれました。彼の一族の家紋は、ラテン語でDraco-Onisという竜でした。ルーマニア語でdracという言葉は「鬼」の意味です。
彼は、<吸血鬼ドラキュラ> (1897年)と言うアイルランド生まれの小説家ブラム・ストーカーが著した本により一躍有名になりました。また、彼が辿った場所も同じく観光地となっています。
ブラン城はヴラド公の狩猟のためのお城です。城の近くにあるブラ村はチーズがおいしいと有名で、観光客は伝統的な農家に宿泊する事もできます。
ヴラド公は子供時代を、中世の香りが残るシギショアラで送りました。観光客はヴラド公が生まれた家で食事をする事ができます。大広場では魔女狩り裁判の劇も行われています。毎年、シギショアラでは中世美術フェスティバルが開催されています。
ヴラド公は青年時代を、フネドアラ市にあるヤンク王の城で過ごしました。トランシルヴァニアの北の方には中世的な砦や15世紀の古い店のビストリツァ市があります。この近くにはチフツァ峠も見え、そこにはドラキュラ城を真似た遊び心たっぷりのホテルがあります。
本物の城は、南カルパート山脈のポイエナリにあります。また、ドラキュラの墓地を訪れるには、ブカレストの近くのスナゴフ修道院に行かなければなりません。その墓の中には馬の骸骨だけが発見されたため、今も尚ドラキュラ伝説は謎に包まれています。
額に星がある双子
牛飼いには三人の娘がいました。ある日、王様が従者をつれて通りがかりました。一番上の娘は、「もし私と結婚してくださるなら、永遠の若さと勇敢さを約束するパンを一斤焼きましょう」と王様に言いました。二番目の娘は、「もし私と結婚してくださるなら、どんな戦いでもあなたを守る洋服を縫いましょう。たとえドラゴンと戦ったとしても、あなたを守ってくれるでしょう」と王様に言いました。末の娘は、「もし私と結婚してくださるなら、額に星がある双子の男の子を産みましょう」と王様に言いました。王様は末の娘と結婚しました。二人の姉は、王様の友人と結婚しました。
王様のお義母さんは、王様と自分の娘を結婚させたいと思っていたので、お妃様のことを嫌っていました。そしてある日、自分の兄弟に頼んで王様と戦争をさせました。お妃様と王様を引き離すためです。 お義母さんは、王様の留守の間にお妃様が産んだ双子を殺して、庭の片隅に埋めました。代わりに子犬を置いておくと、帰ってきた王様はとても怒りました。王様を騙した者がどうなるかを知らしめるために、お妃様は罰を受けました。
双子のお墓からは、二本のポプラの木が生えてきました。王様のお義母さんは、切り倒してしまいたかったのですが、王様は許しませんでした。
二本の木から、王様と自分のベッドを作ることにして、やっと切り倒すことができましたが、二つのベッドは夜中にお互いに話すようになりました。気味が悪くなったお義母さんは、新しくベッドを作らせて、もともとあった二つは燃やしてしまいました。燃やしている間に、二つの火花が飛んで、川に落ちて金色の魚になりました。
この金色の魚を捕まえた漁師たちは、生きたまま王様のところに持って行きたいと思いましたが、二匹の魚はこう言いました。「ぼくらを露の中で泳がせて、太陽の光で乾かしてください」
漁師たちが言われた通りにすると、金色の魚は元の双子に戻りました。
羊の皮でできた帽子をかぶって髪の毛と額の星を隠し、彼らは父親の城に向かいました。王様は彼らの話を聞くと、彼らの帽子を取りました。そして双子が自分の息子だと分かって、王様はお義母さんを処刑し、お妃様を呼び戻しました。