歴史
ルーマニアの歴史は、あまり平和的なものとは言えません。この土地の歴史は、石器時代に始まり、ギリシア人が紀元7世紀に、黒海沿いの交易地点として発展させたことから始まります。
ルーマニア人の起源は、ダキア人またはトラキア人と言われています。紀元1世紀にダキアの王が、現在のルーマニアの領土を支配しました。そしてこの古代ダキアは、紀元106年トラヤヌス帝によって征服されました。
ローマ帝国は、271年には撤退するものの、約3世紀にわたるダキア人とローマ人の混在、混血の結果、ローマの公用語であった「ラテン語」を用いるルーマニア民族が次第に形成されていきました。
4世紀から7世紀に、フン族、ゴート族、スラブ族、など多くの異民族がこの地侵入しましたが、7世紀から10世紀にはルーマニア語が発達し、10世紀以降、農業を主体とした、村落中心の封建国家が、次第に成立していきました。
13世紀末から14世紀には、「ワラキア」「モルドヴァ」の両公国が建国されたが、15世紀末には、オスマン・トルコの宗主権下に入りました。途中ワラキア国王であった「ミハイ」が、「トランシルバニア」を含む3国を短期統一するものの、その後2公国が、1878年まで再びトルコに統治される事になりました。
1821年、独立国家への道を目指し「オルテア」から火の手があがった「ワラキア・モルドヴァ」両公国の革命は、失敗に終わりました。
1848年、トランジルヴァニアを含む3国が革命を起こしたが、鎮圧され、その後、両公国の統一のみが認められ、モルドヴァ国王「クーザー」が統一ルーマニア公国の君主となりました。しかし、クーザー公の退位後に、ドイツ出身の「カロル1世」が君主となるのです。トランシルヴァニアが、ルーマニアに併合されたのは1918年。第1次世界大戦後のことである。
しかし1940年には、ソ連がベッサラビア地方を占領した。翌年には、「ナチス・ドイツ」の圧力により、ルーマニアは第2次世界大戦に参加。1965年には、チャウシェスクが、党の第1書記に就任しました。しかし、彼の独裁政治は国民の不満を買い、1989年12月、チャウシェスク政権打倒を目指し、改革が行われました。これによって、国会には2人の議長と多党政が発達。1991年12月には、新しい憲法が承認されました。その中には、ルーマニアは資本主義経済に基づく、「言論」「宗教」「所有の自由」がある共和国であると記載されています。
ルーマニアのドラキュラ伝説 Romanian Legend
ブラド三世(ブラッド・ツェペシュ/ドラキュラ公)
ワラキア公国王(在位1456~62)
若き日、コンスタンチノープル(現イスタンブール)遊学中に1453年のビザンチン帝国の滅亡に遭遇し、その支配者となったオスマン・トルコ帝国の「メフメト二世」の捕虜となる。
やがて許されて国へ戻り、ワラキアの支配者となるが、約束であったトルコへの貢納金の支払いを拒否し、スルタンから派遣された兵士を、生身のまま串刺しにした残虐な行為から、ツェペシュ(串刺し公)とあだなされた。
ドラキュラの名は、彼の父が神聖ローマ帝国皇帝から授かった、竜=ドラゴンが彫られたメダルに由来する。父はそれによって、「ドラクル」あるいは「ドラキュラ」と呼ばれ、その名が子孫の家名となったのである。
ドラク(DRAC)とは、 ルーマニア語で‘悪魔’のことです。
シギショアラに生家、ブカレストをはじめ、各地には彼にゆかりの城跡がいくつも残っています。
「吸血鬼ドラキュラ」は、彼の行状を年代記で読んだアイルランドの作家、ブラム・ストーカーのフィクションです。